プロミスのサイトです。
有名 シティズ decoration ギフト キャッシングカード パレスチナ コンタクトレンズ 中立 場合 runThisWhen 公式 違法 必然 捉える アレクセイ shvlCloud 国際 協会 ひとつ パレスチナ 製作 primeAdBenefits 金利 設定 イコール shvlCloud ページ (株) オフィス 千代田

アレクセイとは?/ プロミス

[ 441] BBS『アレクセイの花園』
[引用サイト]  http://8010.teacup.com/aleksey/bbs

※ 現在、この掲示板は「投稿モード」を採用しておりますため、ご投稿は即時に表示されません。管理人がチェックの後、手動で掲示板に反映しますので、半日から数時間のタイムラグがございます。ご理解とご協力の程、よろしくお願いいたします。(管理人・アレクセイ)
「買います」という断定形の書きクチとはちゃうから、完全な「言行不一致」とちゃうところが、「妙味なスレスレ感」を醸し出しとるアレクセイの「いい加減さ」やねんな。
ほんまイヤらしいで。アリョーシャが口酸っぱく言ぅーとる、「嘘をつくな」という言葉をギリギリ守ってんねやもん。
そんな具合で、毎度毎度ココの読者たちは「アレクセイのマック買い替え問題」なんて、ちんまいことに振り回されてんねんで。
『書かずにはいられないけど“あの人だけ”にしか見られたくない日記など、誰でもありますよね。そんな時にとっても便利!使いこなせば、日記がより楽しく、そしてもっと表現がひろがりますよ!』
>> 最近のご生活にまつわるご論考を拝見しますと、「思考と行動」がバランスよく、着実に進められているという印象を受けます。――ただ、生活がかかった行動ですので、そこは慎重の上にも慎重にお願いしますね。
> 実は、アレクセイさんから私信にて実際の生活と自身の思考が伴っていないという、私の致命的な欠陥を指摘していただくまで、「思考と行動」のバランスを欠いていたことを自覚していませんでした。これまで、現実の場面では「どうせこうなるに決まっているのに、ジタバタしても仕方ないだろう」ぐらいの認識しか持ち合わせていませんでしたので。
> だから、今でもそういう決め付けた(最初に結論ありき)態度はあるのですぐに諦めてしまうところがあります。
> その辺りを修正しようと奮闘している最中にホランドさんから褒められると、嬉しい反面、自身の単純さを見抜かれているようにも思えます。
でもまあ、人間の成長とは、一歩進んでは半歩下がりといったものなんですから、誉められたり叱られたりでいいんでしょう。いっぺんに人間が、本質的に変わってしまう、別人になっちゃうなんてことはないんですから。
なにかと大変でしょうが、今後もご自分に誇りの持てる困難な道を、悠々と歩んでいただければと思います。園主さか共々、ボクも応援していますから(^-^)。
> ホランドさんの仰る、模倣の情熱ですが、水彩画に関しては、始まりに模倣ありき、ではなかった(と思う)俺にとって、少々難しいかもしれません。
> 前述の、美術の授業では、テーマとして枯葉の画の手本まで用意されながら、手本の画を必要としない(勿論モデルとして用意はした)枝を描き、小説やゲームを基にした絵も、挿絵や表紙などではなく、内容をイメージした空想画に過ぎない代物でした。
> 幼少から絵心はどうやら有していたらしいのですが、絵画展や美術館などには一度も行ったことがなく(美術部時代、部活動としての見学会は全てサボりました^^;)、美術史をひも解いても、興味が湧いたのは絵画ではなく建築の類でした。
> 好きな作家はと訊かれて出てくる名はあっても、画家はと訊かれると、知っている程度で好きも嫌いもないんです、ヒマワリがゴッホだと云う程度でしかないんです。
> おそらく、かつて俺の絵心を触発したモノとは、俺自身が生まれて初めてスゴイ何かを感じたモノ、だったと思われます。
そうですか。ひろさまは、事物から直接の感じた「スゴさ」を、自然に表現に定着するということをなさっていたわけですね。当たり前といえば、あまりにも当たり前な「正統派」的感性ですが、いろんな「表現」に満ちあふれたこの現代日本において、そのような直截な感性が生きていたというのは、ボクにはちょっと驚きです。むしろ、「他人の表現」に触発されての「媒介的な表現欲求」の方が、あたりまえに一般的だと、ボクは思い込んでいたんですが・・・。
そうだとすると、ボクの助言はあまり役に立たなかったようですが、後は、天然としか言い様のない園主さまの過剰な表現欲求が、ひろさまに何らかの良い影響を与えることを期待したいと思います。
> これからしばらくは、新旧を問わずアレクセイさんの批評、批判、特に討論を、静粛に拝謁させていただく所存です。
ええ。園主さまのあれやこれやを読まれた後、なにか触発されるのもがあったら、またそのご感想でも何でも、遠慮なくお書き込みにお出で下さいね(^-^)。
しかし人に言葉を発し、その結果、相手が自分の「思い」や「意志」を完全に理解し、自然に共感出来た場合は、それは自分達の共同体内だけでの事でしょうが、「思想」になり得るのかと今、私は思ったのでした。
つまり、『自分の脳味噌内だけでクヨクヨ考えた事』だとしても、それが徹底的に考え抜かれたものだとしたら、それは「深い思想」でありえるでしょう。ただし、他人には語られないとしたら、その思想の「深さ」を客観的に判定する人はいないんですが。
一方、自身の思いが、他人に向けて発せられ『相手が自分の「思い」や「意志」を完全に理解し、自然に共感出来た場合は、それは自分達の共同体内だけでの事でしょうが、「思想」になり得る』というのは事実ですが、それは「共有された思想」ではあっても、「深い思想」であるという保証はありません。言うまでもなく、「共有された思想」には、深いのも浅いのもある、ということです。
では、「共有されない個人的な思想」と「共有された思想」とは、どちらが価値が高いのかと言えば、一般的には「共有されないよりは、共有された方が良い」とは言えるでしょうが、しかしそれは「思想の価値」の問題としては、あまり本質的ではありません。
つまり、「共有されない・個人的な、深い思想」と「共有された、浅い思想」なら、前者を採る人だって少なくないということですね。また言い換えれば、他人の思想を借りるんではなく、個々が思考を深めて、自分の思想とでも呼ぶべきものを持つならば、初めから普遍性を目指した「共有される思想」など無くても困らない、という考え方もあるわけです。
結局これは、「個」と「普遍」が対立概念でありながら、必ずしも、いつでも対立するわけではないという点がポイントなんでしょう。つまり「個に徹して普遍に到る」とか「普遍に徹して個に到る」というようなことと、この問題は切っても切れない関係があるんだと思います。ですから、要は「思想」であるか否かは別にして、いずれにしろ「思考」というものは徹底され、深められなければ価値がない、という点が重要なのではないでしょうか。
> 『 おれのことがキモいだと。ふざけんな。おまえら(※ 桜坂洋夫婦)のようなオタクと腐女子カップルにおれの悩みがわかるものか。そもそもおれは『新潮』も『ギートステイト』もどうだっていいんだ。こんなもの全部遊びで副業だ。うんざりしているからストレス解消にやっているだけだ。こっちはもう十五年も前から、ちょっとデビューが早かったからってバカな年長世代にさんざおもちゃにされて、浅田彰から山形浩生を通って大塚英志や唐沢俊一まで、おれの文章なんかぜんぜん理解できていないくせに若い世代をクサしてれば生き残れると思って調子に乗って説教をかましてるやつの文章か、笠井潔のようにおれを利用することしか考えてないやつの文章ばかり読まされて、笙野頼子のようにおれが男の批評家だってだけで嫌がらせをしてくるやつも現れるし、それでうんざりしたから文芸誌を離れ、ジャーナリズムから離れて年下には公平に清廉潔白に生きていこうかと思っていると、今度はおれがデビューさせてやった鈴木謙介や前島賢に寝首をかかれ、鈴木は職場からおれを追い出すために暗躍するし、『ユリイカ』や『SFマガジン』は前島ごときにオルグされてるし、もう毎日、とんでもないストレスを抱えて生きてるんだ。知ってんのか、桜坂。それが文学なんだよ。文壇とか論壇ってそういう世界なんだよ。ライトノベルとは違うんだよ。ライトノベルとは!』(P32〜33)
> やはりこれは、笠井を殺すのは、私の役目だということなのでございましょう。笠井潔の場合、その虚構内被害は、竹本健治に『ウロボロスの基礎論』でウンコを踏まされるに止まっており、すくなくとも虚構世界においては、まだまだ健在なのでございます。
みなさん、こんばんは! また、大変な事件が起こってしまいましたね。死者7名を出すにいたった「秋葉原通り魔事件」です。
先日、園主さまが薬丸岳の新刊『虚夢』(講談社)を紹介・推薦なさっていたので、さっそくボクも、園主さまにお借りして読ませていただいきました。さらには先般、死刑判決が下されたばかりの「光市母子殺害事件」の解任弁護士が書いた『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』(今枝仁・扶桑社)を読んでいた最中にこの事件が起こり、こう言っては何ですが、あまりにもぴったりタイミングに、嫌でもいろいろと考えさせられてしまいました。
特に今回の「秋葉原通り魔事件」の場合、昨日のテレビニュースによると、犯人は大学卒業から凶行に到るまでの丸5年間を、非正規雇用者(プレカリアート:「プレカリオ(不安定な)」と「プロレタリアート」の造語であり、不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者・失業者の総称)として、不安定かつ希望のない生活を強いられてきた青年のようです。そして、そんな彼は、その鬱屈した心情を、時に攻撃的な言葉として、以前から何度もネット掲示板に投稿していたようです。
薬丸岳の『虚夢』に描かれた凶悪犯は「精神病(統合失調病)」の青年でした。今枝仁が『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』で描き出した「光市母子殺害事件」の犯人は「劣悪な家庭環境」に育った、年齢不相応に未熟な少年でした。そして、今回の「秋葉原通り魔事件」の犯人は「劣悪な労働環境」において生きる希望を見失い、精神を病むにいたった青年でした。
見てのとおり、フィクション(『虚夢』)とノンフィクション(「光市母子殺害事件」「秋葉原通り魔事件」)の違いはあっても、この3例に共通するのは、犯人がいずれも二十歳前後の「若者」であり、いわゆる「社会的弱者」だということです。
特に「光市母子殺害事件」の犯人は、犯行時18歳の「少年」であり、今枝によると、その過酷な生育環境(外づらは良いが、妻や少年に暴力を振るう暴君としての父親。同じ虐待被害者として、少年と過剰なまでに結びついていた母親の自殺)によって、犯行時の少年は、18歳という年齢に相応しい精神的な成熟を果たしてはいなかった、としています。
という具合に、いずれもが、本人の意志には拠らない「選択不可能な環境的要因」によって、言い換えれば「本人の責任とは、別のところにあった要因」によって、「精神を病み・不健全な精神状態に置かれ」たことで凶行にいたったと、まとめることができるんですね。
もちろん、精神病者や虐待児童やプレカリアートの青年のすべてが、このような凶悪犯罪を犯すというわけではありません。だから「本人の責任じゃないのか」と言う人も多いのですが、――例えば、誰だって風邪をひきますが、その結果、しばらくして治る人が大半である半面、中には先天的な体質や環境の問題が絡んで悪化し、死にいたる人だって少数ながらいるんですね。こうした悲劇的な少数事例をして、「本人の責任」と表現することが、果たして正しい認識だといえるのでしょうか?
もちろん、この「風邪の事例」とは違い、前記の3件の「殺人事件」の場合には、犯人よって殺害された「被害者」が存在しており、その被害者たちには何の非もなかったということがハッキリしています。「ならば、この悲劇の責任は、誰にあるのか? 犯人にしかないだろう」と言いたい人の気持ちもわかりますが、他に「結果責任」の持っていきどころがないという理由で、「ぜんぶ犯人の責任だ」と考えるのは、感情的に過ぎて、冷静かつ客観的な判断だとは言えないでしょう。
「光市母子殺害事件」の被害者遺族である本村洋さんのような立場であれば、犯人に対して「君の育った環境なんて関係ない。君のやったことが問題なんだ」と言いたくなるのは当然だし、そんな止むに止まれぬ本村さんの発言を、責められる人はいないでしょう。
けれども、そうした「被害者感情」に一方的かつ無批判に同一化して、「絶対正義」の立場に立って、様々な背景的要因の果てに凶行に及んだ「犯人たち」を、単純に「悪魔・モンスター」呼ばわりし、「正義の鉄槌」を下すことでスッキリするといった「雑で無責任な態度」が、果たして「正しい行い」だと言えるのでしょうか?
『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』にも書かれているように、「光市母子殺害事件」に関する報道、とくにテレビ報道の多くは、時に猟奇趣味に走った、扇情的で興味本意かつ無責任で不正確なものが、ほとんどでした。だからこそ『この報道問題については、「『光市事件』報道を検証する会」という団体が組織され、2007年11月27日、放送倫理・番組向上機構(BPO)、放送倫理検証委員会に光市事件関連報道の不当性を訴える申立書が提出され』(今枝仁・前掲書P278)、それが同機構・同委員会の検証を経て、光市事件報道の「公正さの欠如」「過剰な扇情報道」という不適切性が認められた結果、放送局各社に対し是正勧告がなされるという結果となったのでした。
そして問題は、そんな偏向報道に踊らされるかたちで「正義」を振りかざし、犯人やその弁護士を誹謗中傷し、バッシングすることで自己満足に浸っていた「浅見浅慮な人たち」が大勢いたという事実なのです。
これらの「凶悪事件」の場合、なにしろ犯人たちのやったこと自体は、言い訳の余地のない罪悪であり、取り返しのつかない非行であったと言えます。だからこそ、たとえ彼らを「不当かつ過剰にバッシング」したところで、そうした人たち自身が非難されることは、ほとんどありませんでした。
でも、彼らのやっていることは、本質的には「イラク・邦人人質事件」の際の、人質や人質家族に対するバッシングと、その心性においては、ほとんど何の違いもないんですよね。
誰だって、理由もなく殺された人や、理由もなく家族や友人を殺された人たちの胸中を察して、同情することはあるでしょう。しかし、だからといって、ネットなどのメディアを介して、「事件には無関係な自分」が、わざわざバッシングに加わるというようなことは、普通はしないんですね。そういうことをする人の多くは、もともとそういうことをやる習慣のある人なんです。
ボクは今『誰だって、理由もなく殺された人や、理由もなく家族や友人を殺された人たちの胸中を察して、同情することはあるでしょう。』と言いました。「ある。」と言い切らないで『あるでしょう。』としたのは、実際には、「他人の悲劇」なんか何とも思わない人が「大勢いる」という事実があるからです。
例えば「光市母子殺害事件」に激怒して、犯人や弁護士たちをバッシングした人たちのうち、いったいどれだけの人が、イラクやアフガンやパレスチナの悲劇に激怒し、その加害者であるアメリカ政府やイスラエル政府を批判したでしょうか?
もちろん、「光市」や「秋葉原」は日本国内で身近であり、イラクやアフガンやパレスチナは遠い外国だという違いはあるでしょう。けれども、私たちがこうした事件に接するのは、メデイアを介してであり、その意味では、どちらも距離的には大差がない、と言えるんですね。
では、両者の違いがどこにあるのかと言えば、それは「一見したところの、わかりやすさ」であり「テレビ報道における、中立性」です。
とは言え、「秋葉原事件」では「光市事件」報道の教訓が多少は生かされており、目立った扇情性は抑制されているようなので、ここでは「光市事件」報道と『イラクやアフガンやパレスチナの悲劇』報道の違いに注目してみると、――前者では「スケープゴートとしての悪人」を仕立て上げやすかったけれど、後者の場合は、わが日本が「アメリカ追従国家」であることから、アメリカやアメリカと密接に結びついたイスラエルを単純に「悪玉呼ばわり」はしにくく、そこでテレビなどでも「中立報道」ということが、ご都合主義的に徹底されたという側面があるんですね。
つまり、『「光市母子殺害事件」に激怒して、犯人や弁護士たちをバッシングした人たち』と『イラクやアフガンやパレスチナの悲劇に激怒し、その加害者であるアメリカ政府やイスラエル政府を批判した』人が、ほとんど重ならないというのは、両者がともに「弱者への同情」という動機をベースにしているように見えながらも、「テレビ報道に関するメディア・リテラシー」の面で大きな認識の違いがあったからなんです。
言い換えれば、『「光市母子殺害事件」に激怒して、犯人や弁護士たちをバッシングした人たち』というのは、もともと「ウケねらい」の扇情性が強く情報の信頼性が低いことでは定評のあるテレビ報道を、ほとんど鵜呑みにする興味本位性の強い(批評意識の低い)人たちであり、『イラクやアフガンやパレスチナの悲劇に激怒し、その加害者であるアメリカ政府やイスラエル政府を批判した』人たちというのは、相対的に「テレビ報道」を鵜呑みにしない、メディア・リテラシー意識のある(相対的に、批評意識の高い)人たちだった、という違いがあるんですね。だから、両者はほとんど重ならないんです。
したがって、『誰だって、理由もなく殺された人や、理由もなく家族や友人を殺された人たちの胸中を察して、同情することはあるでしょう。』が、ことはそんな単純な「心情主義(感情本位)」で済む問題ではないんです。
厳しく言えば、「光市母子殺害事件」の犯人や弁護士を嵩に掛かってバッシングした人たちというのは、「被害者や被害者遺族に同情したから」という理由と同じくらいか、それ以上の動機として「正義を振りかざすための、スケープゴート(ネタ)を与えられたから」という理由でバッシングした、という側面も否定できないんです。
もしも、そうではないというのなら、どうして、聞き齧りの情報に拠る拙速な匿名発言ではなく、もうすこし冷静に事件の状況を知ったうえでの責任を持った発言をしようとはしなかったのか、ということになるんですよね。聞き齧りの情報に拠る無責任な発言なんて、その発言が感情的で自己本位なものでしかなかったという何よりの証拠なんですから。
例えば、『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』で紹介されている、弁護団懲戒請求事件なんかが、その良い例です。
『 2007年5月27日、全国の多くの地域で放映された、読売テレビ系『たかじんのそこまで言って委員会』において、橋本弁護士(※ 橋本徹 現大阪府知事)は、光市事件弁護団の主張を十分な根拠を示すことなく罵倒した上で、こう言い放った。
「ぜひね、全国の人ね、あの弁護団に対してもし許せないって思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」
「懲戒請求っていうのは誰でも彼でも簡単に弁護士会に行って懲戒請求を立てられますんで、何万何十万人という形であの21人の懲戒請求を立ててもらいたいんですよ」
「懲戒請求を1万2万とか10万人とか、この番組を見てる人が、一斉に弁護士会に行って懲戒請求立てて下さったらですね、弁護士会のほうとしても処分出さない訳にはいかないですよ」』
このような橋本弁護士の呼びかけによって、その翌日から全国の弁護士会に、(テンプレートをつかった)本件に関する7000件を越える懲戒請求の申請がなさました(例年は、年間トータルで1200件前後)。しかし、
『 懲戒請求は、弁護士に対し不満を感じたら「いつでも気軽にしていい」というようなものではなく、その行為は刑事告訴に類する法律行為であり、場合によっては虚偽告訴罪の対象ともなり得るほど重大なものだ。弁護士会や請求を受けた弁護士のみならず懲戒請求人にも手続き上の負担を課するものであり、弁護士の懲戒事由について、必要な調査と検討をした上で、慎重に行われなくてはならないという側面もある。それをせず、安易に懲戒を請求すれば、不法行為として損害賠償請求の対象となることもある。橋本弁護士自身も弁護士に対する懲戒請求は、「民事訴訟以上、刑事告訴以下」としているくらいだ。だが、今回、光市事件弁護団の弁護士に懲戒請求をした人たちの中で「民事訴訟提起以上のことをやっている」自覚のあった人は、どのくらいいただろうか。ほとんど、いないのが実情だろう。
そして、橋本弁護士は(※ 本件懲戒請求扇動事件に関する損害賠償訴訟の)裁判の答弁書で、「懲戒請求人のうち、違法なものと、違法でないものとを特定せよ」と「求釈明」してきた。だからこそ、僕は、「懲戒請求するにあたって、何を根拠に、どの程度の調査や検討をしたか、明らかにせよ」という「求釈明書」を各懲戒請求人に送ったのだ。懲戒請求人の中には、
「なんで対象弁護士が自分の住所や氏名を知っているのか」、「こういう威圧的な書面を直接送られるのは、おかしいのではないか」と反応する人もいた。』
『テレビ番組などで、「そこまで言うなら、橋本弁護士自身、率先して懲戒請求をかけるべきではないか」と指摘され、「僕も事務所経営をする身として、そこまで負担できない」と、懲戒請求がさも簡単であるかのような発言とまったく矛盾するようなことを言い始め、ようやく、
「僕が自ら、光市事件弁護団に懲戒請求をかけます」と宣言しておきながら、その後も、自らが懲戒請求することはなかった。橋本弁護士のブログに、
「懲戒請求が違法となるのは、明らかに懲戒事由が存在しないのに、それをわかっていながら懲戒請求をかけた場合。特に弁護士が不用意に相手弁護士に対して懲戒請求をかけた場合なんだ」と記してあることを併せて考えると、自ら懲戒請求することが、明らかな違法行為になることを恐れたからに違いないだろう。そうでないならば、懲戒請求をすることを宣言しながら、結局しなかった理由を、合理的に説明するべきだ。「時間と労力がなかった」という言い訳は通用しない。なぜなら、橋本弁護士は、テレビで懲戒請求手続はあたかも簡単で誰にでもできるものであるかのように発言して視聴者を煽っているのだし、(※ 橋本弁護士自らが被告となった、損害賠償の)民事訴訟では、100頁近い書面で、光市事件弁護団の弁護士に懲戒事由があることを(※ つまり、懲戒請求扇動の正当性を)延々論じているのだから、それをそのまま懲戒請求書として書式を整えて出すだけでいいはずだ。それをしないのは、弁護団に明確な非がないことを知っているため、できないからだ。』
弁護士の懲戒請求とは、その弁護士に不正・不適切な行為があったという理由で、懲戒処分を課するよう弁護士会に求めるものです。つまり、懲戒請求された弁護士の、仕事や生活や社会的体面に直接かかわる、重要な「処罰」請求だということですね。それならば、請求した側にもそれなりの「立証責任(根拠提示)」が求められるというのは当然のことであり、常識に類する話だとも言えるでしょう。
しかしながら、『たかじんのそこまで言って委員会』を見て、橋本弁護士らによる光市事件弁護団バッシングに共感していた類の視聴者の多くには、そんな常識もなく、ただ自己本位な「正義の怒り」を振りかざして、いわば勢いだけで懲戒請求をした、ということなるんですね。
今枝弁護士が送った「求釈明書」に対する上のような反応を見ると、この光市弁護士団懲戒請求事件というのは、本質的には「2ちゃんねらーによる、煽り・炎上事件」とまったく同じ心性・構造によるものだったというのがよくわかります。
基本的に彼らは、「匿名」の安全圏の中から、嵩に掛かって「正義の怒り」をぶつけることしかできません。素顔を晒して正々堂々の戦いを相手に挑むなんて「危ない橋」は決して渡らない。この懲戒請求事件だって、ネット掲示板を炎上させるのと同じ「ノリ」で「やってしまった」ということなのでしょう。懲戒請求書を送った自分が、根拠提示の「責任を個人的に問われる」ことなど想像だにしなかったからこそ、いつものように「面白半分」で、無責任な「請求投稿」をしたんですね。
まただからこそ、本質的に臆病な彼らは、相手の弁護士に自分の身元がバレた途端、慌てて「個人情報を(正当に)バラした」弁護士会を非難するような的外れなことを言ったり、批判した相手に批判の根拠を厳しく問われただけで、すっかり狼狽えたりすることにもなったんです。
このように、「光市母子殺害事件」のような、「一見わかりやすい事件(じつは、そうではないんですが)」の犯人を、テレビなどを介した「断片的な情報だけ」を根拠にバッシングするような人たちというのは、まず間違いなく「自覚はない」のでしょうが、根本的には「自己満足」のためにそんなことをやっている人たちなのだとしか言えないし、そうした意味では極めて「無責任」な人たちなんですね。
だから、そんな人たちに「声」を、その声の「大きさ(=数)」をして、過剰に肯定評価してはいけないんです(つまり、「俗情との結託」は、峻拒されなければならない)。「光市母子殺害事件」の犯人を「悪魔」視する「一般の声」と、ユダヤ人を「我利我利亡者の、アンチ・キリストの民」として蔑視し「ナチス」を熱烈に支持した「民衆の声」とは、その浅見浅慮において、本質的には何の違いもないのだということを、ボクたちは直視しなければなりません。
そして、そこから翻って見るならば、ボクたちは「凶悪犯」というものを、単純に「悪魔視」する言説を疑うべきなんです。被害者(遺族)への思いやりを持つと共に、犯人への想像力も決して失ってはならない。
ボクたちはたまたま、比較的恵まれた環境に生まれ育って、いちおう真っ当な社会人としての道を歩んでいます。しかし、ボクたちが「幸運にも」そういう環境に生まれたということと、こうした凶悪事件の犯人の多くが「不幸にも」恵まれない環境に生まれ落ち、あるいは置かれたということの間の「大きな差異」には、合理的な理由なんてありません。
つまり、被害者であれ犯人であれ「なぜ、自分だけがこんな目に遭うんだ!?」と問うてみても、その「合理的な(納得のいく)答」なんて、宗教でも信じないかぎり、どこからも誰からも与えられることはないんです。
ボクたちは「たまたま」幸運だった。彼らは「たまたま」不運だった。ただそれだけであり、不運であったことに、彼ら自身の責任は無いんです。
だから、問うべき責任は問うべきですが、問うべきではない責任まで、その結果責任として、無闇に感情的(自己慰撫的)に、問うてはならない。
相手が、アメリカやイスラエルという「巨大な存在」ではなく、容易に責任を問うこともできる「一個の弱い個人」であるからといって、彼らの責任だけを声高に問うのは、行為の一貫性の問題として「アンフェア」な態度なのではないでしょうか。
今の日本人は、あまりにも知性と想像力に欠けて、感情的です。東浩紀風に言うなら、「動物的」だとも言い換えても良いでしょう。でも、自分が「動物」並みに「非知的」だと思っている人は、たぶんほとんどいないはずですし、そうであるならば、日本人として世界に恥じない「知的」なところを、是非とも見せて欲しい。
しかしそのためには、直視しにくいものを直視し、想像しにくいものに想像力を働かせてみせる、強靱な知性と精神力が求められるはずです。
凶悪犯罪者を「悪魔」や「人非人」と決めつけて(レッテルを貼って)非難し断罪することは、たぶん小学生だってできるでしょう。しかし、そういう安易かつ感情的な判断を一旦停止して、冷静かつ客観的に「真相」を知ろうとする努力は、誰にでもできることではないんです。
「世論という、数の力」に乗じて犯罪者を否定し断罪するのは容易ですが、断罪なんて、いつでもできるんです。――だから、その前にボクたちがすべきことは、粘り強く、この「悲惨な現実」と向き合い、それを如何にして乗り越えるのかを思考することなんですね。
凶悪犯を「キャベツか何かを潰す」ように抹殺してみても、何も解決しないのだということを、知性ある者ならば是非とも考えなければならないし、そうした努力の先にだけ「微かな希望の光」もあるのだということを、決して忘れてはならないんだと思います。
しかし人に言葉を発し、その結果、相手が自分の「思い」や「意志」を完全に理解し、自然に共感出来た場合は、それは自分達の共同体内だけでの事でしょうが、「思想」になり得るのかと今、私は思ったのでした。
みなさま、詳しくは後日ご報告させていただくとして、先ほど読了したばかりの小説について、ご一報とかたがた、ここで強く推薦をさせていただきたいと存じます。
その本とは、つい先日刊行されたばかりに推理小説『虚夢』(薬丸岳・講談社)でございます。本作は、少年犯罪問題を扱った『天使のナイフ』で江戸川乱歩賞デビューを果たした気鋭の、長編第3作目となります。作者はこれまで、一貫して「現代日本における犯罪」の問題をテーマとしてきた「硬派作家」で、私の場合これまでは「いまさら社会派はなあ…」と敬遠していたのでございますが、『IN☆POCKET』2008年5月号に掲載された、書評ライター中島駆の、たいへん熱のこもった書評に後押しされて、手に取ることになりました。
本作『虚夢』は、「精神障害者の犯罪と犯罪被害者家族の問題」というとても難しい問題に、真正面から切り込んだ作品でございますが、偏りのない非常に目配りのきいた、かつ、作者の思いのこもった、じつに誠実な傑作となっております。
詳しくはまた後日書かせていただくとして、本日は、この傑作をみなさまに一刻も早く推薦したいと思い、急遽、筆を取ることにいたしました。
今なら、大型書店ではサイン本が売られております。この作品なら、何らかの文学賞を受賞する公算も高いと申せましょう(直木賞・山本周五郎賞・吉川英治文学新人賞・日本推理作家協会賞など)。ですから、賞ものがお好きな方は押さえておくべき作品でございましょう。感動したい方にも、安心してお薦めできる作品でございます。もちろん「意外な結末」も準備されております。
とにかく、ひとまず多くの人に、この作品を読んでいただきたい。そして楽しんでいただきたい。その上で、少しでも「考える」時間を持っていただけたらと思い、このように取る物も取り敢えず推薦させていただいたという次第でございます。
永らく(物理的に)封じていた絵具は、使用に耐えられないほど固化しており、この際はと思い立って、スケッチブックともども新調してまいりました。
本日の情熱は、液状のココナツミルクには長年慣れ親しんでおりましたが、初めての粉末のそれを仕入れ、いかに美味しく調理するか、に注がれました。
他人に食べていただくためではありませんから、俺自身が満足できれば、それを以って合格としますし、点数は満点の他に有り得ません。
この失敗は、過去総じても5例まではありませんが、そも己のために作る料理である以上、己以上に己の嗜好を知る人もおりませんから、あとは技術や慣れで、「美味い」と、俺自身が評価できる料理を、作れて当然、と思っております。
俺が自分で「美味い」と思う料理を提供しているだけであって、それが「不味い」と評されれば、味覚の差異だと思うだけですから。
ただし、その評によって嗜好が判別されるなら、次回はその人が好み望む調理法を試すことが、俺の新たな楽しみとなります。
そうして、自分用と他人用とでレシピの異なる同一の料理が生まれますが、普段は自分のために、時折は人のための料理をすると云うバランスで、永く料理を趣味として楽しむことができております。
生活のための自炊に直結する料理と、長くは続いていない、職業的ではないモノカキとを、同一の趣味の範疇に捉えて比較することは不毛だと思えますが、俺の人間性を表す例のような気がします。
ホランドさんの仰る、模倣の情熱ですが、水彩画に関しては、始まりに模倣ありき、ではなかった(と思う)俺にとって、少々難しいかもしれません。
前述の、美術の授業では、テーマとして枯葉の画の手本まで用意されながら、手本の画を必要としない(勿論モデルとして用意はした)枝を描き、小説やゲームを基にした絵も、挿絵や表紙などではなく、内容をイメージした空想画に過ぎない代物でした。
幼少から絵心はどうやら有していたらしいのですが、絵画展や美術館などには一度も行ったことがなく(美術部時代、部活動としての見学会は全てサボりました^^;)、美術史をひも解いても、興味が湧いたのは絵画ではなく建築の類でした。
好きな作家はと訊かれて出てくる名はあっても、画家はと訊かれると、知っている程度で好きも嫌いもないんです、ヒマワリがゴッホだと云う程度でしかないんです。
おそらく、かつて俺の絵心を触発したモノとは、俺自身が生まれて初めてスゴイ何かを感じたモノ、だったと思われます。
そのスゴイモノとは、既に描かれた絵ではなく、その絵の基となるようなモノ、例えば初めて実物の富士山を見た、小説の展開に衝撃を覚えた、プチ・トリアノンにロマンを感じた、母親の作ったツルウメモドキのリースが見事だった、と云うような。
でも、25歳からの10年間、知識と経験を溜め込むための放浪と称して日本各地を(30回以上の引越を伴って)移り住んだのに、絵は描けませんでした。
昔のようには湧いてこない情熱を呼び醒ますために、別の扉が必要だとしたら、改めて模倣を探るのも手段になるかもしれませんね。
依頼人が気に入るかどうか、も、まず描いてみないことには、どうにもならないのが現実です、ふとそれに気付いて泣きそうな俺です。
俺が、アレクセイさんの論に良し悪しを注せるほどには、自我は外界を注視しておらず、自らの欲する事象に対してのみ食指を働かせる愚者であることは、もはや明白に見抜かれていると思いますが(笑)
俺に必要な(と自分で信じる)モノは、良しも悪しも、正も邪も、光も闇も別け隔てなく、論理や理論、数式で証明される、あらゆる整合性です。
でもこの、完成された悪さ、って難しいと思うんです、善悪の悪ではなく、良し悪しの悪さを、どう完成させたらいいんだろう?未完成・不完全であることが、悪さの要件ではないか?と。
そこで唐突に、アレクセイさんの関わる討論を観察していれば、どこかに光明が射すのでは、と感じた俺でした。
議論の内容そのものは、俺の無学無教養もあって、いずれにしろ駄弁を挟む余地もありませんから、どちらが正しいなどと云う決着にも然程の興味はなく、ただ単純に純粋に、アレクセイさんが、ご自身の論に筋を通すのは言うまでもなく、対する論客の論にもアレクセイさんの筋(を押しつける、とか、を強要する、とか、で増設する、とか、で代弁する、とか、色々な意味で)を建てる、その、『アレクセイさんの通す筋』こそが媚薬=毒なんです。
そこは、奇特な、と評された通り、たとえ毒の対象が俺であったとしても、その通された筋によって俺は感嘆する、そう欲するわけです。
これからしばらくは、新旧を問わずアレクセイさんの批評、批判、特に討論を、静粛に拝謁させていただく所存です。
ただし、料理ならば次回こうご期待と洒落込めるわけですが、同じシーンの二度とない小説に於いては、貫くしかないでしょう。
他のファンタシーを一切読まなくなった俺に、他人が読みやすく理解しやすい文章は書けない、と不毛にして自虐な前提を科して逃走するのが得策(笑)
徐々にでも名文が書けるよう、どう努力するかは、こちらも絵と同じく、まずは執筆を再開しないことには話にもネタにもなりません。
絵については、実力のほどはともかく、アマチュアリズムからの脱却まで果たせなければ、依頼者の要望には到底応えられない、という悲壮な覚悟を覚悟するに至りました。
クラーレ毒から始まって、スズメバチ、アコニチンと行って、医学方面を彷徨ってるうちに英国のロックバンドに辿り着いたような。
そこから優生学、血友病、大西・・・と云う経路だったような気がしますが、所要時間は12時間を超えました(笑)
と、実は前回、投稿>編集>掲載の手順があるものと勝手に決め込み、アスタリスクの行間はオフレコ的に書いておりまして、削除されるものと思っておりました。
もっとも、編集削除ましてや加筆などのお手間を、ご返信いただけますよう暗にお願い申し上げる一閲覧者の分で、望むなど笑止千万ではございます(笑)
元が、メモ帳で延べ半日以上をかけて書き込み、貼り付けて送信するたちの人間ですが、校正まがいのことはしても要約はしないと云う不精者につき、再度の長文は呆れても笑ってお許し下さいますよう加えてお願いいたしつつ・・・
ご助言のお礼さえお届けできましたら、それで本分は全ういたしてございますので、お手間でありましたら掲載されなくとも構いません。
> 最近のご生活にまつわるご論考を拝見しますと、「思考と行動」がバランスよく、着実に進められているという印象を受けます。――ただ、生活がかかった行動ですので、そこは慎重の上にも慎重にお願いしますね。
実は、アレクセイさんから私信にて実際の生活と自身の思考が伴っていないという、私の致命的な欠陥を指摘していただくまで、「思考と行動」のバランスを欠いていたことを自覚していませんでした。これまで、現実の場面では「どうせこうなるに決まっているのに、ジタバタしても仕方ないだろう」ぐらいの認識しか持ち合わせていませんでしたので。
だから、今でもそういう決め付けた(最初に結論ありき)態度はあるのですぐに諦めてしまうところがあります。
その辺りを修正しようと奮闘している最中にホランドさんから褒められると、嬉しい反面、自身の単純さを見抜かれているようにも思えます。
シナリオを論理的に書き進めるのは脚本家の腕の見せどころですね。まず、アレクセイさんが書かれたシナリオを演じることで、箴言の内容を実感できればと思っています。
ところで話は変わりますが熊谷氏のサイトで繰り広げられる、投稿→削除のドタバタの結末は予断を許しませんね。
冬がとっくに終わったところで、熊さんの冬眠開けの挨拶があったのはいいですが、お仲間達が熊さんを起こさないようにと掲示板にトランキライザー(削除)を投与し続けているのは滑稽です。(笑)
私の「第一印象」が悪いというのは定評のあるところでございますから、べつになんとも思いません。むしろ、「悪い第一印象」で読者を選別している部分もあるのでございますから、それはそれで狙いどおりなのでございますよ(笑)。
奇特な方だとは申せましょうが、その志は素晴らしいと存じます。今は、自分を無傷で守ること、肯定されることしか考えていない人間が、あまりにも多ございますから。
お気持ちはよくわかりますが、「毒」というのは持って生まれた部分が大きく、欲しいといって得られるものではないと存じます。例えば、私が「いい人になりたい」と言っても、それは無理なのと同じでございましょう。
つまり要は、自分の長所を正しく理解して、そこを生かすように努力するのが一番だということではないでしょうか。好き嫌いとは別次元で、向き不向きというのは、やはりあるのではないかと存じます。
それほどの量を書けたのなら、ひとまずひろさまには、ファンタジーを書くことが「向いている」ということなのでございましょう。もちろん、これは素晴らしいファンタジーが書けるということではなく、ひとまず楽しみながら書けるという意味でございます。
で、ここで問題となるのは、ひろさまは、それを自分のために書くのか、それとも他人を楽しませるために書くのか、という問題でございます。
むろん、楽しく書いて読者にも楽しんでもらえたなら、それに越したことはないのでございますが、しかしそれは、理想であって、誰もがそうしてうまくいくものではございません。だとすれと、ひとまずどちらを「優先」させるのかという問題は避けられないものだと思うのでございますね。――さて、ひろさまは、どちらを選ぶのでございましょう?
ホランドくんも書いておりましたとおり、ひろさまには、まだ創作への情熱が十分に残っていると存じます。しかし、その情熱は、昔も今も「絵」には向かっておらず、ただ期待してくれている方への感謝の思いから「絵」を描きたいと思っておられるだけなのでございましょう。
そのお気持ち自体は、とても素晴らしいことなのですが、そういう理由から、ひろさまのような方が、描きたくもない絵を描くというのは、ほとんど無理でございましょうね。
つれないことを言うようでございますが、私自身、依頼原稿はあまり良いものが書けないという経験から、近年は「書きたいことを、書きたい時に、書きたいだけ書く」ということに徹しております。つまり、アマチュアリズムに徹している。だからこそ、保てるボルテージだという側面もあるのでございますよ。
そんなわけで、こんな私が助言できるとしましたら、それはひろさまも、「したい」だけではなく「何が出来るのか」ということを、自分に問うてみることであろうかと存じます。――いくら良いこと、好ましいことであったとしても、「出来ないことは出来ない」ということは、残念ながらあるのでございます。
> 「良きこと」は「すべき(義務)」です。しかし、この場合の「義務」とは、自分が自分に課する義務、つまり、自分がそれを「選び取った」上で自分に課するものであって、他人が人に課する(押しつける)ものではない。例えば、「困っている人がいれば、助けてあげる」という「他者援助」は、個々人が自分の判断で進んでやるからこそ意味があるのであって、他人が強いるべき「義務」などではない。
言い換えれば「強いられた善行」は善行ではなく、「他人に善行を強いること」は、原則的には「人間(固有)の尊厳」を蔑ろにする「悪行」なのだということを、ボクたちは心すべきなのですね。
熊谷伸一郎のような「平和運動家」も、本音の部分では「(凡庸な)政治家」として「実益を伴う実行動」を他人に求め、かなうものなら強制しようとさえする。つまり「他人に善行を強いること」は「実際的には、良いことだ」と考えている。「動員(数)の思想」だな。しかし、ここには明らかに、「動くこと」への依存からくる退嬰的な「思考停止」が働いていると言えるだろう。
先ごろ刊行された思想誌『思想地図』(東浩紀・北田暁大 編集)に収録された共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」(東浩紀・萱野稔人・北田暁大・白井聡・中島岳志)の冒頭、東浩紀は次のように『思想地図』の創刊意図を語っている。
『 ここ十数年、僕の考えだと一九九五年以降、論壇の社会学化と心理学化が急速に進みました。その結果、政治について語ることが、当事者性を強調した単純な言葉で埋め尽くされている。二言目には具体的な実効性を、と問われてしまう。
しかし、政治とは、そもそも社会を共同で運営していく行為一般のことのはずです。そのためには、本来はもっと抽象的な言葉、思弁的な言葉で考えてもいいはずです。僕としては、そういう場を取り戻したい。もちろんそのときに、政治というからには、具体的な実効性や現実との繋がりはなければならない。しかし、「現実と繋がってますよ」「こんなに現実を見てますよ」と、ことさらに叫び続ける必要があるだろうか。そもそも「現実」とはそれほど単純なものだろうか。』(P7)
ここで東浩紀の語っていることを、熊谷伸一郎のような(自称)『体育会系運動家』が「動きの鈍い、頭でっかちの言い訳だ」と、陰で批判することは容易だろう。しかし、東浩紀の言っていることは、いたって常識的かつ真っ当なことでしかない。
東浩紀のこうした主張は、臆面もなく『「現実と繋がってますよ」「こんなに現実を見てますよ」と、ことさらに叫び続ける』人たちの「頽落的な政治的言説」が跋扈する昨今だからこそ、その主張に正当性が認められるといった「時事的」なものには止まらない。その証拠に、大西巨人は文学者として、昔から同じことを変わらずに主張し続けてきた。
光文社文庫版『深淵』の解説で、鎌田哲哉は、大西巨人が戦後すぐに発表したエッセイ「籠れる冬は久しかりにし」を引用して紹介した上で、『深淵』というタイトルの意義を次のように語っている。
『 我々が「春」の到来だと錯覚している事柄は、実際には皮相で形式的な意味における政治上の上滑りにすぎない。もし我々が真に「冬」を一掃し、「新しい別の冬」への悪循環をも拒絶したければ、「深淵」における自主的かつ精神的な闘争を通じて、それらを自力で勝ちとる以外ない。この闘争は、政治的なものを回避するためではなく、逆にそれを根底的に戦い抜くために不可欠なのだ。――大西は、この簡潔な批評文でそう述べている。「「深淵としての人間・民衆」を剔抉すること、そこから真の現代革命への道を見い出すこと、それらを為さずして、文学は、他の何を為すことがあるのか」(大西同上)』(P343)
「深淵としての人間」の剔抉を欠いた結果、「庶民の側につく」ことを公言して憚らない「平和運動家」までが、内心では庶民を侮蔑することになる。そして、そんな彼らが権力を握ることは、真実の「春」の到来を意味せず、所詮は『皮相で形式的な意味における政治上の上滑りにすぎない。』。だから、そんな形で達成された「新しい権力」は、容易に「抑圧的な権力」へと転化し、『新しい別の冬』と化して、既視感のある悪循環へと繋がっていくんだ。
我々に金看板はいらない。我々に必要なのは、金看板を背負って「正義」を押しつけてくる奴らを徹底的に疑い抜いて、「深淵としての人間」を見極めるという「行動」なんだ。――おまえの言っていたとおり、人間知性の真髄は「反省能力」にこそあって、看板としての「正義」にあるわけではないんだ。
みなさま、本日は、評論家東浩紀とライトノベル出身の作家桜坂洋の合作小説『キャラクターズ』(新潮社)をご紹介したいと存じます。
東浩紀をめぐる物語を、東と桜塚が交互に、自己言及的な「一人称」で語り、ゲーム小説的物語の進行と、文壇や文学をめぐる批評的論述が錯綜する、これは今様のメタフィクションだと申せましょう。――まあ、それにしてもそこはそれ。東浩紀が噛んでいる物語でございますから、この種の小説に対する「とおり一遍な読み」を拒絶する「予防線」が張り巡らされており、一筋縄ではいかない、批評しにくい作品となっており、その意味において、なかなか興味深い作品ともなっております。
しかしながら端的に申しますと、やはり「小説」としては、弱い。「私小説」的なものに回収されない「虚構の可能性」を手探りしながら、しかしどこかで「虚構」を信じて身を任せ切っているとは思えない「(重心の掛かっていない)軽さ」を、この作品は感じさせます。
つまり、やっていることはそれなりに面白いし、「評論家小説」特有の読みにくさもなく、それなりに楽しめはするものの、「従来の小説」が保持していた「私小説」性を、小説の形式において内破するほどの、小説としての「重さ」を持ち得なかったという点において、この小説は、その志を遂げえなかったと評価できるのではないか。――がしかし、それでもそれなりに楽しめたという点は評価できましょう。たとえそれが私の個人的な興味に発するものだとしても、読者の一人である私を楽しませたという功績は、この小説に認められるべき功績なのでございます。
言うまでもなく、この小説は「フィクション」であり、そこで語られる「東浩紀とその周辺事情」を、そのまま、私たち読者の現実水準のものとして読むというのは、伝統的かつ悪しき「私小説」的な読みであり、凡庸かつ下世話な読みだと申せましょう。しかしながら、それでもそこで楽しめるという点で、この小説は確実に救われてもいるのでございます。
作中の東浩紀は、筒井康隆的世界に言及しながら、筒井康隆的な作中の東浩紀(おれ)に次のように語らせます。
『 おれのことがキモいだと。ふざけんな。おまえら(※ 桜坂洋夫婦)のようなオタクと腐女子カップルにおれの悩みがわかるものか。そもそもおれは『新潮』も『ギートステイト』もどうだっていいんだ。こんなもの全部遊びで副業だ。うんざりしているからストレス解消にやっているだけだ。こっちはもう十五年も前から、ちょっとデビューが早かったからってバカな年長世代にさんざおもちゃにされて、浅田彰から山形浩生を通って大塚英志や唐沢俊一まで、おれの文章なんかぜんぜん理解できていないくせに若い世代をクサしてれば生き残れると思って調子に乗って説教をかましてるやつの文章か、笠井潔のようにおれを利用することしか考えてないやつの文章ばかり読まされて、笙野頼子のようにおれが男の批評家だってだけで嫌がらせをしてくるやつも現れるし、それでうんざりしたから文芸誌を離れ、ジャーナリズムから離れて年下には公平に清廉潔白に生きていこうかと思っていると、今度はおれがデビューさせてやった鈴木謙介や前島賢に寝首をかかれ、鈴木は職場からおれを追い出すために暗躍するし、『ユリイカ』や『SFマガジン』は前島ごときにオルグされてるし、もう毎日、とんでもないストレスを抱えて生きてるんだ。知ってんのか、桜坂。それが文学なんだよ。文壇とか論壇ってそういう世界なんだよ。ライトノベルとは違うんだよ。ライトノベルとは!』(P32〜33)
もちろん、ここに書かれていることは、フィクショナイズされております。だからこそ、書けた「部分」もあり、私が興味を惹かれるのは、そうした普通なら書けないような「真実」なのでございますね。
ちなみに、ここで言及されている前島賢は、笠井潔の「限界小説研究会」に鞍替えして、仕事量を確実に増やした、あのちゃっかり者の前島賢でございます。
さて、物語の中では、共著者である桜坂洋がヘリコプターの墜落事故で死亡してしまい、唯一の友と言えた桜坂を失った作中の東浩紀(ぼく)は、こんな嘆きを漏らします。
『 小説は続いている。桜坂には酷いことをした。ぼくは桜坂の伏線を裏切り続けた。けれど彼は文句ひとつ言わず、いつも翌日には(※ この小説の担当の)パートを上げてくれた。辛かったろう。『ギートステイト』でも迷惑をかけた。鈴木健との決裂では彼が仲介してくれた。連載直後にぼくが降りると言い出し、堀田が匙を投げたときも、彼だけは粘り強く説得してくれた。ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ。桜坂はそのぼくがはじめて出会った、本当の意味での友人と言える存在だった。ぼくはそんな彼を、ぼくの考えるとおりの小説を書かないからといって、夜も妻からの電話でさっさと帰ってしまうからといって、殺してしまった。もう二度と彼には会えないのだ。もう二度と。絶対に。』(P73)
『構造と内容と文体のボロメオの輪を、その廃虚のうえにふたたび結びなおすことができるのだ。そして、その分裂が強いた悲劇、桜坂の死をリセットすることができるのだ。もしかしたらそのときには、この十年間のぼくのすべての失敗すらリセットできるかもしれない。朝日新聞(※ 本社)さえ焼かれれば、灰になれば、
僭称された第三の審級がなくなり、すべてのひとが丸裸になれば。そのときにはきっと、浅田彰も大塚英志も阿部和重も新海誠も鈴木謙介も、ぼくの愛する人たちが、そしてぼくから離れたひとたちが、すべて戻ってくるだろう。』(P78〜79)
もちろん私は、このシーンにおける作中人物の妄想には、まったく興味がございません。興味があるのは、この小説において、作者の東浩紀が、自身の周辺にいた多くの実在の人物について実名で言及したあと、戻ってきてほしい『愛する人たち』として具体的に名前を上げたのが、浅田彰・大塚英志・阿部和重・新海誠・鈴木謙介であって、柄谷行人や笠井潔、前島賢ではなかった、という事実なのでございます。――これは、現実の問題としても、前の五人にくらべると、後の三人は東浩紀に「愛されていない」という事実を示しているのでございましょう。
さて、三人に「分裂」した作中の東浩紀は、桜坂洋の死を切っ掛けに、朝日新聞本社ビルを炎上させ壊滅させれば、よき世界は回復できるという妄想にとらわれて、朝日新聞本社襲撃を敢行。ついに本社ビルの炎上破壊に成功いたします。
本書のラストシーンは、そんな朝日新聞本社ビルの大炎上シーンなのでございますが、その時、おりしも同ビル内では、書評委員が会議をしていたのか、同紙書評委員の唐沢俊一や北野暁大(※ 社会学者。先頃、東と共同編集で思想誌『思想地図』を刊行)や香山リカの悲惨で滑稽な死が、おまけのサービスのように描かれます。
――もしも、このシーンで、わが笠井潔の滑稽な死に様が描かれていれば、私のこの小説に対する「個人的な評価」は、もっと上がっていたでしょうが、残念ながら「朝日新聞」の書評委員ではない笠井の登場はございませんでした。笠井がかつて『利用』した雑誌『TRIPPER』は、なぜか登場したというのに……。
やはりこれは、笠井を殺すのは、私の役目だということなのでございましょう。笠井潔の場合、その虚構内被害は、竹本健治に『ウロボロスの基礎論』でウンコを踏まされるに止まっており、すくなくとも虚構世界においては、まだまだ健在なのでございます。
みなさん、こんにちは! すこしご報告が遅れてしまいましたが、竹本健治の新刊が先日刊行されました。ご存じ「キララ」シリーズの2巻目となる『キララ、またも探偵す。』(文藝春秋)です。
このシリーズは、さえない大学生 乙島侑平のところへ、親戚の変人科学者 益子博士が極秘裏に開発した「メイド型アンドロイド」であるキララが送られてきて、キララのモニタリングを依頼されるというところから始まります。
キララは、どんなアイドルだってかなわない絶世の美少女の外見を持ち、しかもご主人様として登録されている侑平にはぞっこんの絶対服従です。当然、侑平は大喜びするんですが、キララが侑平の元に届けられて以来、キララと侑平は、キララと同型アンドロイドがらみの事件に、たびたび巻き込まれることになります。
一見したところ、お軽いノリの、ノーテンキなSFミステリ見えるシリーズですが、そこはさすがに鬼才竹本健治。「アンドロイド(=人造人間)は如何にして可能か?」という設問を通して「人間とは如何なるものなのか?」という根源的問題を逆照射してみせます。
ミステリ的に際立った謎の提示や謎解きがあるわけではなく、そのようなものを期待すると肩透かしを喰うことになるかも知れませんが、上記のような思弁的問題意識を読み取れれば、見掛けとは違う、知的にスリリングな小説として楽しめるシリーズに仕上がっています。
キララを含む同型の「メイド型アンドロイド」、ここでは仮に「キララ型アンドロイド」としておきますが、キララ型アンドロイドには、
で、竹本健治が「キララ、失踪す。」で応用したのは、この第1条の『ロボットは人間に危害を(…)与える危険を見過ごしてはならない』の項目で、なぜ「彼女=キララ型アンドロイド」は「事前に殺人計画を知っていながら、その時すぐに、その計画を止めようとはしなかったのか?」という「謎=ホワイダニット」を設定しみせたんです。
侑平のそうした疑問について、「キララ型アンドロイド」開発スタッフの一人であるミス・キャンベルは、次のように答えます。
『「ソレハ大変デリケートナ問題デース。モトモト益子式三原則デハ、アジモフ流三原則同様、ロボットハ人命ヲ守ラナケレバナラナイトイウコトニナッテイマスガ、ソノ原則ヲ無制限ニ最優先サセルト、人命ノ危機ガ存在スル場所ハコノ世ニイクラデモアリマスシ、早イ話、戦争ヤ飢餓ヤ疫病ハ世界ノ各地デ進行中デスカラ、ロボットハ真ッ先ニソウイウ場所ニ駆ケツケテ人命救助ヲシ続ケナケレバナラズ、永久ニ本来ノ役割ヲ果タスコトガデキナクナッテシマウデショウ。ダカラ特ニ命令ノナイ場合、守ルベキ人命ノ対象ハゴク限ラレタ次空間ノ範囲内ニ制限サレテイルノデース。シカモ今回ノケースデハ、(…)何ヵ月モ先ノアヤフヤナ犯行計画ニ過ギナイノデ、ソレダケデハ違法ナ行為トハ言エマセンネ。ダカラ彼女ハソノ場デハ、ソノ話ヲ単ナル情報ノヒトツトシテヤリ過ゴシタノダト思イマス」』(P80〜81)
作中でも語られているとおり、ロボットが人間と共存していくためには、こうした「ロボット3原則」は必要不可欠なものだと言えるでしょうが、「原則」はあくまでも原則であって、それらの個々の原則を『無制限ニ最優先サセル』と、それはそれで何かと不都合な事態の発生も避けられないんですね。だから、こうした「正しい原則」の適用範囲をどこまでとするか、つまり「限定をどのように課するのか?」というのが、非常に重要かつ本質的な問題となってくる(=正しさの限界設定)。――で、この問題は、そのまま「人間の問題」でもあるんですね。
つまり、人間の場合だって「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」というのは、自明の「大原則」だと言えるでしょう。だけど、そこにも確実に「限界」はある。
「パレスチナ問題」「イラク戦争」「ミャンマーのサイクロン被害」「中国・四川大地震」などの実例を待つまでもなく、作中でも語られているとおり『戦争ヤ飢餓ヤ疫病ハ世界ノ各地デ進行中』ですから、ボクたち人間も「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」という「原則」を『無制限ニ最優先サセル』と『真ッ先ニソウイウ場所ニ駆ケツケテ人命救助ヲシ続ケナケレバナラズ』、永久に「自分の幸せ」という『本来ノ』目的を追求することが出来なくなってしまうんです。
無論、人間には「自分個人の幸せの追求」という(ロボットには無い)「本来の目的」があるから、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」ことはない、ということにはなりません。あくまでも、この「他者救援の原則」は生きていますが、その原則が追求されるのは、あくまでも自分がこの「原則」の行使によって不幸にならない範囲に「限定される」んです(つまり、「自己犠牲の快楽(=幸福)」は否定されません)。
言い換えれば、ロボットの場合なら「原則」の「適用範囲」を、人間によって設定され、それをインプットされるだけ(だからこそ、人間の作る「プログラム」がしっかりしていないといけない)なんですが、本質的な個体差を持つ人間の場合には、個々人が個別的状況に応じて「原則の適用範囲」を自分で判断し選択して行動しなければならない。「倫理問題」に対しては、誰も画一的な「正解」を与えてはくれない、という難しさがあるんですね。
つまり、ここで問われているのは、「個人における、自他のバランス問題」なんだと言えるでしょう。「原則」としては、人間は「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」のだけれど、どのくらい「他人の救援」に「自分の時間と労力」を掛けるか掛け得るかは、人それぞれであり、一律に決定することはできません。
暇とお金のある人、あるいは、たとえ我が身を滅ぼすことになっても、人に尽くすことが最大の喜びであると感じられる、文字どおり「奇特な人」であれば、この「他者救援の原則」を、文字どおりに追求することもできるでしょう。でも、暇もお金もなく、家族を養っていくことで精いっぱい人や、体が弱くて動けない人、あるいは精神的に自分のことで手いっぱいの人(精神病の人や、単純に利己心に凝り固まっている人)には、「他者救援の原則」は、容易には追求できない難問となるんですね。
でも、「困っている人がいれば、助けてあげる」というのは、とても(わかりやすく)素晴らしいことであるからこそ、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」という「原則」は、しばしば「義務」的なものと勘違いされがちですし、そのために「困っている人を助けようとしない人は、冷酷漢の人非人だ」という「表面的かつ短絡的判断」がしばしばなされがちで、そのことによって、時には「自分個人の幸せの追求」という「より根源的な原則」の追求が妨げられるようなことも、決して珍しくはないんです(例えば「お国のため、家族のために、その命を捨てよ。自分一個の幸せに固執するのは、愚劣な生き方だ」というような思想を正当化してしまいがち)。
ですから、ロボットとは違い、ボクたち「人間」には「個別多様な(=個性的な)判断能力」があり、それがあるからこそ「選択(意志決定)の自由」もあって、そこにこそ「人間固有の尊厳」もあるのだということを、よくよく考えなければならないんですね。
そうでないと、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」といった「美しい原則」によって、「人間固有の尊厳=知性の自由」を傷つけ妨げるという醜行がまかり通ってしまうことにもなりかねないんです。
「良きこと」は「すべき(義務)」です。しかし、この場合の「義務」とは、自分が自分に課する義務、つまり、自分がそれを「選び取った」上で自分に課するものであって、他人が人に課する(押しつける)ものではない。例えば、「困っている人がいれば、助けてあげる」という「他者援助」は、個々人が自分の判断で進んでやるからこそ意味があるのであって、他人が強いるべき「義務」などではない。
言い換えれば「強いられた善行」は善行ではなく、「他人に善行を強いること」は、原則的には「人間(固有)の尊厳」を蔑ろにする「悪行」なのだということを、ボクたちは心すべきなのですね。
ともあれ、ロボットはインプットされた「プログラム」にしたがって、いつも同じパターンで「行動範囲」を限定されていれば良いわけですが、ボクたち人間は、目の前に選択必要状況が立ち上がる度に、どのような選択をすべきかと悩まなければなりません。それは、とてもしんどくて辛いことなんですが、でも「より良きこと」行うために「悩む」「悩み得る」というところに「人間(固有)の尊厳」があるということを忘れてはなりません。
つまり、「悩み」が無いのが、幸せなのではない。高度かつ有意義な問題について、適切に「悩み得る」人間こそが、もっとも「人間らしく幸せな人間」だと言えるのではないでしょうか。
最近のご生活にまつわるご論考を拝見しますと、「思考と行動」がバランスよく、着実に進められているという印象を受けます。――ただ、生活がかかった行動ですので、そこは慎重の上にも慎重にお願いしますね。
>> そして、そういうものに、いったん身を委ねてしまうと、人はそれ(「つっかえ棒・浮き輪」的なもの)を失うことを、何よりも怖れてしまう。それを失うという事態を想像(予想)するだけで、人は自身の足元の大地が崩壊して、無限の奈落へと引き込まれていくような「恐怖」を感じるんでしょうね。
> 人間のそういう部分を非難しても、非難された相手側にすれば「絶対」という確信を持ったモノがないので、対話を拒絶するか退散するか、あるいは開き直って愚痴っぽくなるばかりでしたね。だからこそ、自分の考えを頼りに論理的に考えようとする人は、稀有な存在にならざるを得ないのでしょうね。
そうですね。園主さまもしばしば「反省こそが、知性の真髄だ」というようなことをおっしゃいますが、裏を返せば「反省=自分を省みて客観的に検討すること」は容易ではない、ということなんでしょうね。また、だからこそ、他人が、本人の気づきにくい部分を指摘してあげる。――むろん、それで反省できるようになる人なんてめったにいないんでしょうけど、その稀有な可能性に賭ける、人間の可能性を信じて賭けるというところに、批評の存在意義もあるんだと思います。
園主さまからのご回答の前に、ボクも及ばずながらの参考意見を書かせていただきますと、「絵を描きたい」という情熱を再燃させるには、『パクリ』たいと思うような絵に接することが、一番だと思います。
どんな創作だって、最初は「こんなのが描きたい(書きたい・作りたい)」という「模倣の情熱」から始まるわけですから、それを否定してはいけない。個性なんて、後からだんだん出てくるものなんですから、最初は『パクリ』でいいし、『パクリ』から再出発すればいいんじゃないでしょうか?
でも、そのためには「パクリたい」と思える作品・作家を見つけなければなりません。情熱が勝手に湧いてくるのを座して待っていても、それは無理というものでしょう。ボクが思うに、とにかく自分が真似したくなるような(触発してくれる)絵描きを是が非でも見つけることが、この場合、肝要なんだと思います。
そして、参考までにつけ加えておきますと、ひろさんのご文章には、巧拙を越えた「情熱」が今でも生きています。だから、決して「情熱」が涸れているというわけではありません。単に、その情熱が「絵」に向かっていないだけだと思いますので、その情熱をうまく「絵」に差し向けるよう、ご努力をなさればいいんじゃないかと思います。
で、あそこまでコテンパンにやられて、ほうほうの態で逃げ出した熊谷さんなんですから、あの屈辱を忘れられるはずなんてないのは、傍目にも明らかなのに・・・。
いや、もしかすると、あまりにも強烈な屈辱体験であったがために、その記憶を封印して、ホントに忘れてしまったのかも知れませんね。そうだとしたら、お気の毒です。
それにしても、もう一度、ご自身で「平和運動家論争」を読み返して、ご自分の「歴史的現実」を直視し、その上で、その現実を乗り越える努力をしてもらいたいものです。
ご自身も「南京大虐殺」などについて語られているとおり、思い出したくない記憶でも、それを直視しないかぎり、いつまで経っても問題は解決しませんからね。
ま、それにしても園主さま、熊谷さんの掲示板「問答有用」の方で、徹底的にやっておられますね。「書き込んでは削除され、同じものを書き込んでは削除され」という、掲示板上での「見えにくい暗闘」は、ほとんどドタバタ喜劇の域に達していると思います(^-^;)。
>> 園主さまがこの結果について、どのようにコメントするのかが、興味のあるところです(コワイもの見たさで/笑)。
> それにしても、『探偵小説の論理学』に投票した「本格ミステリ作家クラブ」会員は、ごく常識的な意味で「読解力が無い」人たちだと言えるだろうな。投票者が判明したら、ここにその名を列挙してやろうか(笑)。
>> ブログの方で、今ご自身にとって、とても大切な問題について、格闘的に「思考」しておられているんですね。
>> 問題は、一朝一夕には解決しないでしょうが、kamuiさんの今のご努力は、決して無駄にはならないと思います。園主さまともども、心から応援しておりますので、挫けずに、しぶとく頑張って下さい。(< ホランドくん)
> こんにちは。お読みくださりありがとうございます。しかし、読んでいて暗くなりそうな話ばかりですね。(苦笑)
これはやはり、ご自分の弱点を直視し、それを隠さずに吐露したうえで、それと向き合えるようになったご自身に、ご自身が本当の意味での自信を持てるようになったからではないかと存じます。
> 園主さまがこの結果について、どのようにコメントするのかが、興味のあるところです(コワイもの見たさで/笑)。
それにしても、『探偵小説の論理学』に投票した「本格ミステリ作家クラブ」会員は、ごく常識的な意味で「読解力が無い」人たちだと言えるだろうな。投票者が判明したら、ここにその名を列挙してやろうか(笑)。
熊谷伸一郎氏は、私の投稿を削除したことについて、その責任を「問答有用管理人団」なる「正体不明の集団」に転嫁しようとしたのでございます。
私は、熊谷氏に「忙しくしており、メールを拝見できず、お返事できませんでした」などというような、いつもの空々しい「言い訳」を許さないため、今日までたっぷりと時間的猶予を与えたのでございますが、いくら待ってみても、結果は予想どおりだったというわけでございます。
当然、熊谷氏は、すでに私の上記返信を読んでおりますし、くり返し投稿されている前掲の書き込み「熊谷伸一郎の掲示板「問答有用」の存在意義」も読んでおります。その上で、またもやご都合主義的に「知らん顔」を決め込んでいる。――これが、私が熊谷伸一郎氏のことを「勝手つんぼ」を呼ぶ所以なのでございます。
といった「戦争と平和と中国との友好」にかかわる著書のある、著名な「平和運動家」でございますが、そんな熊谷伸一郎氏とは、実のところ、このように「卑怯未練」な人物だったというわけなのでございます。
投稿を片っ端から削除されはじめた私は、この「問答無用の削除」の事実を、掲示板「問答有用」の閲覧者に周知徹底すべく、発見され次第「削除」されるのは承知の上で、ゲリラ的にいくつかの投稿をいたしました。
中国政府ならまだしも、日本の警察だってしないような「問答無用の強権発動」によって、いったいどのような「書き込み」が、ここの管理者によって「削除」されるのかを示すため、問題とされたであろう「文中のURL」のみはずし、あらためて原文を「議論のための資料」として、ご紹介したいと思います。
「問答有用管理人団」は、 同書き込みの中に、私と熊谷伸一郎氏との「平和運動家論争」を紹介するリンクがあるのを捉えて『自サイトの宣伝行為』にあたる(46420「宣伝投稿はお断りします」)と言いたいのでしょう。
しかしながら、これが当たり前の意味での『自サイトの宣伝行為』に該当しないというのは、削除された下の投稿に書いたとおりです。
つまり、この「論争」の『熊之巣』での公開は、もともと「この掲示板の管理人である、熊谷伸一郎氏が望んでいたこと」であり、それを私が代理で行ったに過ぎないからです。
もしも熊谷伸一郎氏が、自身の「以前の発言」に反して、自分のブログや掲示板での「平和運動家論争」の紹介を望まなくなったのなら、せめてそれを皆の前で表明・撤回すべきであり、それこそが「職業言論人の最低限のモラル」というものではないでしょうか。また、「問答有用管理人団」の名を借りての「削除」というやり口は、あまりにも「陰険・姑息」なのではないでしょうか?
ともあれ、正体の定かではない「問答有用管理人団」とやらは、中国政府さながらに、私の書き込みを「削除」しました。こんなことをするようでは、この掲示板の名前も、そろそろその実態に即して「問答無用」にすべきであり、その方が正直かつストレートなのではないでしょうか。
問答(議論)をするためには、その「議論の対象」をつねに明確にしておくというのは当たり前のことで、「平和運動家論争」関連の後続の書き込みに、あらためてリンクを張っておくというのは、後からこの議論を読む人たちへ、当然の配慮でしょう。
しかしながら、自分の書いたこと言ったことを「恥ずかしくて、読まれたくない」という熊谷伸一郎氏の、別名か、あるいは傀儡である「問答有用管理人団」が、無理にでも同ページを紹介させまいとするのであれば、――それはそれでかまいません。その事実が「記録」されることの方が、私としてはありがたいのですからね。「暴力(強権)にも言論で」というのが、私のポリシーですし(笑)。
そんなわけで、下の再録文からは、「平和運動家論争」ページへのアドレスだけが削除されてます。これなら、この文章を「削除する理由」は無いでしょう。――なにしろこれは「管理者による、削除の是非」に関する「議論・問答」を求める意見の書き込みなんですからね。
「削除」や「排除」といった「強権発動」は、あとで否定することのできない(明白かつ貴重な)「リアクション」として「記録」されるものであり、その「事実」を、私の掲示板や「よそ」で、「事実報告」として紹介することだってできるのですからね(笑)。私が四の五の論ずるよりも、端的に「事実」を示す方が良いというのは、「平和運動家論争」の場合と同じなのです。
そのあたりを「忌憚なく」お聞かせ願えれば、論争の当事者として、私は無論、熊谷伸一郎も喜ぶのではないかと思います。なにしろ、この、
――もっとも、貴方は、ご自分の投稿が削除されても、ぜんぜん平気なようで、そのことについて管理者を批判することもなさっていないようですが、これは貴方が「体制順応派」だからなのか、それとも、削除された書き込みで「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」などと大口を叩いたので、削除された方がむしろ好都合だと考えたから、なのでしょうか?
削除された貴方の書き込みのログをまだ採ってはいなかったので、正確に紹介することはできませんが、貴方のレスで私の印象に残ったのは、私がその前のレス(No.46423)で、
と書いたことについて、「私は興奮していない。なぜならば(…)。興奮しているのは、おまえのほうだ」と大真面目に反論なさっていたこと。
それから、前記のように「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」と、熊谷伸一郎氏を「無根拠に切り捨てていた」点の、2点です。
まず前者から感想を書かせていただきますと、私は「自分が興奮していないということを、自分で論証できると思い、それを実行しようとする人」というのは、「そうとう頭が悪い」か「飛び抜けて頭が良い」かの、いずれかでしかないと考えます。――さて、加減乗除さまは、そのどちらなのでしょう。
次に後者についてですが、所詮はどこの馬の骨かもわからない「匿名」者である加減乗除さんが、身元をはっきりさせて発言をしている熊谷伸一郎氏を、根拠も示さずに否定的に評価するというのは、身の程知らずであり、アンフェアな態度だと思います。
「非匿名」である熊谷伸一郎氏や私などは、失言したり、議論で言い負かされたりした場合、その後は、その事実を背負っていかなければならないという立場を選んだ人間です。つまり、ひとまず「発言責任」をとる形式は引き受けている。
ところが「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」なんて大口を叩く加減乗除さんご自身は、所詮は「2ちゃんねるの匿名鴉」と同じで、いざとなればハンドルネームを変えて、姿を暗ませればそれっきりという、じつにお気楽で無責任な立場ですよね。そんな人間が、仮にも一定の実績を残している熊谷伸一郎氏について、根拠を示すこともなく「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」なんて大口を叩くというのは、あまりにも自分の立場に無自覚(=身の程知らず)であり、頭の悪い態度と言えるのではないでしょうか?
結局、自分では大したこともできない、あるいは中身のあることが言えない「三流のクズ」が、自分よりもずっと優れた人間を「あんなもの大したことない」とか何とか、くだらない難癖をつけ、それを「評価」だ「批判」だと言って、優位に立ったような気分になりたがるというのが、このネットの世界の常なんですが、私が思うに加減乗除さんなどは、そういう「ネット的有象無象」を象徴するような存在(=典型的人物)なのではないでしょうか。
「いや、私はこういう者だよ。この自分のブログで、固定ハンドルで、こうして責任ある発言を、継続的に行ってきた人間だ」とご説明下さるのであれば、私のこの「加減乗除」理解は、単なる誤解であったと撤回しましょう。どうですか、加減乗除さん?
いぜん、私に「匿名」を批判された頭の悪い「ネウヨ」は、こう言われて、急遽「捨てホームページ」を立ち上げ、身元証明にしようなんてしてましたけど、貴方には「発言責任の担保=身元証明」となるような、継続的なホームページやブログなどがあるのでしょうか?
ま、ともあれ、ご自分の文章が正確に引用されていないことについてご不満がおありなら、文句は管理者に言うべきですし、ご自分で再度、原文をアップすべきでしょうね。
でも、それをしないのなら、やむをえず正確を期せなかった紹介文について文句をいう筋合いは貴方にもないし、偉そうなことを言っても、所詮は貴方が管理者に媚びた、この掲示板の「寄生者」の一人だということにもなるでしょうね。
>「ピン」の右翼とは?「キリ」の右翼とは?ぜひ、アレクセイさんの「右翼のピンキリ」の定義を教えてください。ついでに「左翼のピンキリ」についても御教示いただけるとうれしいんですが。
「まず定義ありき」の理科学系のジャーゴンならばともかく、人文系の用語について、やれ「定義は何だ?」などと問いたがるのは、「2ちゃんねるの厨房」特有の悪い癖(使い古された手管)ですよ。そんなことだから「私は興奮していない。興奮しているのは、おまえのほうだ」なんて、子供じみた反論をなさるんです(笑)。
ちなみに、私の中で、尊敬できる右翼としてイメージされるのは、まず鈴木邦男ですね。私は「右翼」の研究家ではないので、昔の人のことはよく知りませんが、鈴木邦男には、意見の異なる部分(天皇制など)はあっても、人間としての信頼性を感じます。
で、尊敬できない、あるいは、「右翼」の名に値しない人として目についたのが、ここでも書き込みをなさっている工藤猛さんです。
それにしても、私の評価としては、「朦朧言語」の「安手のネット右翼」である工藤さんよりも、「2ちゃんねるの厨房」そのままの加減乗除さんのほうが、よほどくだらない人間だと思います。工藤さんに比較したって貴方は、およそオリジナリティーのない「猿真似男」なんですからね。
ま、何はともあれ、一人前に扱って欲しかったら、「匿名」は止めた方がイイですよ。匿名の放言に、右翼も左翼もありません。それ以前の問題ですからね。
ちなみに、貴方のご発言のログも採るようにしていますし、いずれそのまま紹介させていただきますので、その折はまた、四の五の言わずに、なにとぞよろしく(笑)。』(全文)
最後の投稿に『今日は、これくらいにしといたる』とありますとおり、翌日からも、このパターンによる反撃はあり得たわけでございますが、それでは芸もなく、外見上、掲示板荒らしに似たものになってしまいますから、私は、この「問答無用の削除」の事実をまとめた上で、それを紹介する投稿において、再び反撃の狼煙をあげようと考えました。
ところが、私が「問答有用」から「排除」されて以降、ご承知のとおり、加減乗除さまが当「アレクセイの花園」の方へ書き込みに来られるようになり、加減乗除さまとのやりとりにおいて、掲示板「問答有用」の存在意義をあぶり出すことが出来ましたので、私の「問答有用」へのひさびさの投稿(反撃の狼煙)は、当初の予定に反して、次のようなものになったのでございます。
その熊谷氏が管理運営する掲示板「問答有用」で戦わされている議論とは、いったい何なのか? また、この掲示板の存在意義は、奈辺に存するのか。それを論じたのが、以下のページです。
を、熊谷氏の掲示板「問答有用」の方へご報告ご紹介し、さらに「その後の議論の展開状況」を続けてご報告いたしましたところ、私の投稿(書き込み)の多くが、あちらの「問答有用管理人団」なるものによって削除されたという経緯につきましては、すでにホランドくんが、
において、報告してくれたとおりでございますが、その後、私は熊谷伸一郎氏から、ひさしぶりにメールをいただくことになりました。
この熊谷氏からのメールをご紹介し、その意味するところを解説させていただく前に、この「突然の来信」にいたる「一連の経過」を、ここでまとめておきたいと存じます。
『この議論(※「平和運動家論争」)に関しましては、当初から熊谷伸一郎氏との間で、お互いのサイトで公開しようという話になっておりましたが、お忙しいせいか、熊谷氏の方ではいっかな公開される様子が無いので、私が公開したものを、こちら(※ ブログ『熊之巣』の掲示板「問答有用」)へもご紹介に上がりました。/熊谷氏が、このブログのコンテンツのひとつとして、ご自分の手でこの記事を(固定的に)ご紹介下さる日までのつなぎとして、上記のページをご参照いただければと思います。』(書込みNo.46375より)
その後、ご承知のとおり、当「アレクセイの星座」の方へ、「問答有用」の常連投稿者で、自称「右翼」の工藤猛さまがお書き込みにおいで下さり、私と工藤さまとの間で若干のやりとりがございましたので、それをご報告する書き込み、
『わたしもアレクセイさんのサイトを見せていただきました。大変興味深い内容だと思います。熊谷伸一郎氏が政治運動を利用していろんなことをする人間だとの認識は以前から持っていましたが、このような形ではっきりと示された文章を読んで、そうした認識を再確認しました。
これはわたしからの一方的な提案ですが、アレクセイさんが、ご自分のサイトに書かれている文章を少しずつでもよいので、この掲示板に転載されてはいかがでしょうか。この掲示板で直接文章を読めば、掲示板の読者もより低コストであなたの文章を読むことができますし、熊谷伸一郎氏との議論を促進する機会にもなるのではないかと思います。
ついでに申し上げますが、工藤さんは独り言の好きな人ですので、敬して遠ざくのが賢明なやり方かと思います。』(全文)
『それはやるべきではないでしょう。それでは、自分の書いたものをただ宣伝している「迷惑投稿」に等しいものになってしまいますから。
投稿数は、できるだけ絞って、私が嫌いな人のお目汚しにならないようにしたい。――結局のところ、強制的に読ませることは出来しないし、嫌がらせで投稿しているわけではないんですから、(…)(※ 「平和運動家論争」)を「紹介」するだけで十分なんじゃないかと思います。
「現実を直視できない自分という現実」の直視を避けながら、それでも「平和運動」がやれているような気になっている人の、人間としてのあり方だって、まあ本人がそれで良いというのなら、それで仕方ありませんからね。』
『 毎度の宣伝ご苦労様です。ここは議論系の掲示板ですから御自分の掲示板の宣伝は一度するぐらいで十分ではありませんか?
あなたの投稿を傍観しておりましたがそろそろ目障りになってきました。もちろん、「政治運動屋熊谷伸一郎」を批判するのならすればよろしい。他の掲示板の宣伝をいつまでも垂れ流す必要はないでしょう。
自サイトの宣伝行為は、その内容が当掲示板の趣旨に反する、あるいは無関係のものでなければ、一度だけは認めますが、二度三度と反復することはお断りします。
見てのとおり、明らかにこれは、私の投稿、それも「平和運動家論争」を紹介する投稿を、標的とした「警告」でございます。
また、それでいながら、あえて名指しせず、「一般論」に見せ掛けようと体裁を取り繕うところが、いかにも「熊谷伸一郎氏とその仲間たち」的な、(現・中国政府的)陰険姑息さを感じさせましょう。
『その内容が当掲示板の趣旨に反する、あるいは無関係のものでなければ、一度だけは認めますが、二度三度と反復することはお断りします。』
という部分を見ると、まるで、私が単に「平和運動家論争」の宣伝をくり返しているかのような印象を与えますが、私の投稿は、最初のもの(No.46375)以外はすべて「その後の展開を報告するもの」であって、単なる『反復』ではございません。
閲覧者が「その後の展開」の意味を理解するためには、その前提となる「平和運動家論争」を読んでおく必要があるので、そこにも「平和運動家論争」へのリンクを貼っておいたに過ぎないのでございます。
それを、熊谷伸一郎氏の意を受けて、あるいは意を汲んだ、あるいはまた熊谷氏本人の「隠れ蓑」である「問答有用管理人団」は、単なる『反復』宣伝であるかのように「難癖」をつけることで、「平和運動家論争」の紹介を妨害しようとしたのでございます。
これ以上「平和運動家論争」についての書き込みをさせないことで、いずれ掲示板上から「平和運動家論争」に関するそれまでの書き込みが流れてしまうのを待とうとしたのでございましょうね。
そのあたりを「忌憚なく」お聞かせ願えれば、論争の当事者として、私は無論、熊谷伸一郎も喜ぶのではないかと思います。なにしろ、この、
無論、熊谷さんも、これを多くの人に読んでもらい、自分の考えを広く知ってもらいたいと思っているはずですよ。なにしろ、天下の「岩波」文化人なんですから、よもや二言なんて無いはずです(笑)。
中国政府が、約束どおりチベットの亡命政府と会談をしたそうですが、「暴動への対処は、治安維持のため行った、完全に正当なものだった」という主旨のことを言ったそうな。
しかし、この2つの投稿のうち、文中に「平和運動家論争」へのリンクを含む前者は削除され、後者は臆面もなく残されることになりました。「皮肉は無視すれば良い」ということなのでございましょう。
また、私の『ところで、加減乗除さまは「政治運動屋熊谷伸一郎」を、どう評価なさっているのでしょうか?』という問いかけに対する「熊谷伸一郎なんて、ネットに掃いて捨てるほどいるネウヨやネサヨとどうレベルのものとしか思っていない」という主旨のレスを含む、加減乗除さまの書き込みも「削除投稿に関連するレス」として、私がログを採取する前に、私の前者の投稿(No.46423)と同時に、「問答無用」で削除されてしまいました。
> 問題は、一朝一夕には解決しないでしょうが、kamuiさんの今のご努力は、決して無駄にはならないと思います。園主さまともども、心から応援しておりますので、挫けずに、しぶとく頑張って下さい。
こんにちは。お読みくださりありがとうございます。しかし、読んでいて暗くなりそうな話ばかりですね。(苦笑)
> そして、そういうものに、いったん身を委ねてしまうと、人はそれ(「つっかえ棒・浮き輪」的なもの)を失うことを、何よりも怖れてしまう。それを失うという事態を想像(予想)するだけで、人は自身の足元の大地が崩壊して、無限の奈落へと引き込まれていくような「恐怖」を感じるんでしょうね。
人間のそういう部分を非難しても、非難された相手側にすれば「絶対」という確信を持ったモノがないので、対話を拒絶するか退散するか、あるいは開き直って愚痴っぽくなるばかりでしたね。だからこそ、自分の考えを頼りに論理的に考えようとする人は、稀有な存在にならざるを得ないのでしょうね。
みなさん、こんばんは! ミステリ関連の賞が出そろったようなので、ご紹介方々、簡単にコメントをしておきたいと思います。
見てのとおり「第61回 日本推理作家協会賞」の<長編及び連作短編集部門>の方は、新鋭・門井慶喜の『人形の部屋』以外は、どれが受賞してもおかしくない、すでに評判の高い作品でしたが、本格ミステリ作家だけではなく、ハードボイルドや冒険小説系の作家も少なくない日本推理作家協会では、『果断2』が「凝った警察小説」として、満遍なく評を集めたのではないかと推測されます。
同賞<評論その他の部門>は、すでにいくつかの文学賞を受賞している最相葉月の『星新一 一〇〇一話をつくった人』と、「まだ受賞していなかったの?」という感じの大御所 紀田順一郎の『幻想と怪奇の時代』が、2作同時受賞。可能性としては『星新一 一〇〇一話をつくった人』の単独受賞か、この作品に、残る大御所2人(紀田と石上)のどちらかの作品を併せるという形が予想されたんですが、結果としては紀田さんの方が残りました。たしかこの本は、かなり昔の文章をまとめたもののはずで、その意味でも「この機会に」ということになって、「現役」の石上さんの方が後回しになったのかも知れませんね。
「第8回 本格ミステリ大賞」の<小説部門>は、前会長の有栖川有栖の話題作『女王国の城』が受賞。既受賞者である歌野晶午の作品は評判的に言ってもいちばん可能性が薄かったと思いますが、あとの3作はどれが取ってもおかしくはない作品だったと言えるでしょう。そうなると、「立場」というか「先輩から、どうぞ」という感じになるのは、どの世界でも同じことのようです。
『私の感想を忌憚なく申し上げますと、本書『探偵小説の論理学』は、なかなか「恥ずかしい本」だと申せましょう。
別に小森健太朗が「笠井潔の忠実な追随者(=金魚の糞)」であるからそう言うのではなく、わかりやすく申しますと、本書は、いかにも「神秘主義」傾倒者らしい幼稚な「博識自慢=博識依存」が、あまりにも見苦しい論文集だからなのでございます。仲正昌樹の新刊タイトルを借りて申しますと『知識だけあるバカになるな!』という感じ。』
『本書は「第8回本格ミステリ大賞」の「評論・研究部門」の候補作になっているそうでございますが、ミステリファンの私といたしましては、本書が受賞して、万が一にも専門の学者の目に触れた場合を考えますと、まことに心肝寒からしめられるところでございます。』
たぶん、一般的にも法月綸太郎の評論集の方が評判が良いだろうし、大方の予想は法月の受賞ということだったんじゃないかと思うんですが、法月は『生首に聞いてみろ』で<小説部門>を受賞しているので、そのあたりへの配慮がはたらいたのかも知れませんね。
――ともあれ、園主さまがこの結果について、どのようにコメントするのかが、興味のあるところです(コワイもの見たさで/笑)。
工藤さまや加減乗除さまについては、園主さまがすでに書き尽くしておられるので、ボクとしてあえて付け加えることはありません。ただ、園主さまも書かれていたとおり、ご自分の現実を直視して、批評の起点となるご自身について、まず厳格な評価・検討を加えていく努力が何より大切だと、ボクも重ねて申し添えておきたいですね。
あれもこれも肯定することにより判断責任を回避し、そのことによって自分自身の「無節操・無責任・無思考」を肯定してしまうというやり方は、ひとまず楽なのかも知れないけど、それは、最後まで「自己欺瞞の負い目」を感じ続けなければならない道なんだということを忘れないで下さい。
> アレクセイさんの「平和運動家論争」を下記の私のホームページに掲載いたしました。どうぞ、ご確認下さい。ホームページは、まだまだこれからと言った内容ばかりですが自分の成長に併せて充実できればと思います。
ブログの方で、今ご自身にとって、とても大切な問題について、格闘的に「思考」しておられているんですね。
問題は、一朝一夕には解決しないでしょうが、kamuiさんの今のご努力は、決して無駄にはならないと思います。園主さまともども、心から応援しておりますので、挫けずに、しぶとく頑張って下さい。
> そういえば、中国に一定の割合で存在する、官報に対し批判能力に欠けた過激なナショナリストの全体主義性をみるにつけ、当時、僕が直に接した「“熱心な”活動家学会員」とダブってみえます。僕を目の前にして、イラク戦争の正当性を滔々と語った彼らを僕は一生忘れないでしょう。
園主さまもおっしゃっていましたが、「思想」であれ「愛国心」であれ「信仰」であれ、結局のところ、そうしたものは、多くの人にとっては「自分という、一個の弱くちっぽっけな存在」を下支えするための、存在論的「つっかえ棒」だということなんでしょうね。
突き詰めて考えてみると、この世界のあらゆることに、根底的かつ絶対的な根拠なんかないというのがわかります。つまり、ボクたちは、世界の中に「宙吊り」にされている。
そうした「現実」を、日頃のボクたちは「日常性」の中に埋没することで忘れているんですが、でも、人はふとしたことを切っ掛けに、そんな「現実」に直面したり、直面しかけたりして、それに心底「恐怖」する。そして、何か「すがるもの」はないかと手探りしたところに、「溺れる者の藁」のごとき「思想」や「愛国心」や「信仰」などがあったというわけです。
そして、そういうものに、いったん身を委ねてしまうと、人はそれ(「つっかえ棒・浮き輪」的なもの)を失うことを、何よりも怖れてしまう。それを失うという事態を想像(予想)するだけで、人は自身の足元の大地が崩壊して、無限の奈落へと引き込まれていくような「恐怖」を感じるんでしょうね。
だから、その「恐怖」、「自己喪失の恐怖」に比べれば、「見知らぬ他人の命」なんていう「観念的なもの」は、何ほどの価値も持たなくなるのでしょう。「昨今の中国人ナショナリスト」や「イラク戦争を肯定する創価学会員」の目に映っているのは、ボクたちが見ているような「他人の悲劇」ではなく、ただただ「自身の悲劇」としての「自己喪失の恐怖」なんだと思います。
ですから、彼らの「自己中心的な態度」を非難するだけでは、彼らを変えることは出来ないでしょう。まずしなければならないことは、彼ら自身が「怯えている」のだという、事実を教えてあげること。「怯えているからこそ、自分のことに精いっぱいで、他人のことを思いやれないのだ」という事実に気づかせてあげることなのではないでしょうか?
認めたくないでしょうが、貴方と園主さまとの力量の差は、歴然としていますよ。これはボクが、園主さまの身内だから言うのではありません。身びいきでそんなことを言ったって、ここをご覧になっている多くの読者のみなさんは、けっして納得しないばかりか、身びいきを語るボクの愚かさを、嘲笑するだけでしょうからね。
これは貴方の場合だって、同じなんです。貴方が、いかに突っ張って見たところで、傍目にその力量の差は歴然としている。それを駄々っ子のごとく否定してみせても、客観的には、何の意味もありません。むしろ貴方は、その「歴然たる事実(=力量の差)」を否認することによって、ご自分の愚かさを自己証明することになってしまっているんですよ。
きっと、まだお若いのであろう貴方には、自制ということが困難だったのでしょう。だから『何だ、逃げるのか』なんてことまで書いてしまった。それなのに、そんな貴方が、いきなりぴったりと書き込みを止めてしまったのは、――たぶん、お仲間からドクターストップ(自制ならぬ他制)がかかったからなんでしょうね。「君の方が正しいし勝ってるよ。だから、もうアレクセイの挑発になんか乗らないでおけ」といった具合の「助け舟」が。
でも、工藤猛さんにも書いたとおり、そういう「煽て(=欺瞞的慰め)」に飾られた「助言」に寄りかかって、現実の直視を回避するというやり方は、結局のところ『最後まで「自己欺瞞の負い目」を感じ続けなければならない道』なんだということを忘れないで欲しい。
ホントのことは、貴方自身だって気づいているんですよ。ただ、それを認めたくないだけ。認めたら、自分の存在意義が雲散霧消してしまうと怖れているだけ。――でも、それを認めた先にしか、貴方のホントの成長は無いんです。
> 人が「教養」を積むのは、「現実を知るため=現実に関する知識を得るため」というよりも「幻想を知るため=私たちが、いかに世界を見たいようにしか見ていないかを知るため」なのだと申せましょう。
> 「教養」の無い者がしばしば「迷信」に囚われるのは、彼が「現実」を知らないからではなく、大概は「幻想」というものを知らないからなのでございます。
> ですから、「自分の見たいようにしか世界を見ることできない=幻想に生きる」人間というのは、本質的な意味で「無教養」なのだと申せましょう。逆に言えば、「現実を直視する強さ」さえあれば、「教養」など必要ないのでございます。
> そして最後に、まとめとして平たく言ってしまえば、「他人の評価」を求めている間は、人はまだまだ知的に未熟なのでございます。
> 本物は、そんな凡庸なことなど求めず、ただ「曇りなき目で現実を直視し、それと向き合う生き方」、つまり「他人」や「世間」ではなく、「世界と直接対峙する生き方」を求める。――「知的である」とは、そういう態度をいうのでございましょう。
「知性」の問題というのは、結局のところ、「感情に由来する幻想」との対決、というところに行き着くんでしょうね。
> 譬えて言うならば、しばしばスポーツ選手というものは、オリンピックに参加することで「自分の成果」を発表できる機会を与えられるならば、そのオリンピックが、独裁国家のプロパガンダ(政治宣伝)ためのものであろうと何であろうと、そんなことをまったく気に掛けはいたしません。
> その、きらびやかで尤もらしい表舞台の陰で、どれほど多くの人が犠牲を強いられていたとしても、そんなことは「私たちの競技には、なんの関係もないことだ」と、そう思いたがるのございますね(=オリンピック・ボイコット反対の論理)。
> しかし、本当にそうなのでしょうか? この場合、彼らは、自らの自己実現・自己欲求のために「独裁国家のプロパガンダ」に加担している、ということにはならないのでしょうか?
「オリンピックと政治は別問題」だと主張する人というのは、結局のところ「そう思いたい」「そうでないと困る」ということでしかなくって、そういう「個人的な都合」をなんとか「正論であると思いたい」と思っているだけなんですから。
> 私はべつに、貴方さまのような「どこの馬の骨とも知れない」「頭の悪い」「無能・無名の」「匿名者」など、どうでもよいと思っているのでございますよ。
この部分は、一見すると、加減乗除さん個人を嘲弄しているように見えますが、反省心のある多くの人にとって、こうした言葉は、決して「他人事ではない」と思えるはずだからです。
つまり、ここで園主さまが、加減乗除さんのこととして書いている「負の性格」は、実際のところ、誰の中にもあるものなんですね。で、要は、それを認められるか認められないかというところで、大きな差になってしまうんです。
言い換えれば、加減乗除さんは、園主さまのこうした指摘を、是が非でも否定しようとした。一方、園主さまに評価されるような人というのは、自分のこととして指摘されずとも、こうした問題を自分に引きつけて考え、反省することができる。――重要なのは、この差なんです。
言うまでもないことですが、「反省」するというのは、「自分が悪かった、間違っていました。すみません」と思うことではなく、「客観的に見て、自分はどういう存在なのだろうか? 自分の態度はどう評価されてしかるべきものなのだろうか?」と「自己検証」することを言うんですね。
ご心配をお掛けいたしましたが、やはりLANケーブルの断線が原因だったようで、新しいものに交換しましたところ、あっさり復旧いたしました。
みなさま、またもやパソコントラブルでございます。現在、パソコンからの書き込みができない状態となっており、このご報告は携帯電話から行っております。
LANケーブルの断線が原因と思われますので、晴れれば明日にでも、LANケーブルを買いに出掛けたいと存じますが、もしかすると、いよいよ今度こそ新型パソコンの導入ということになるかも知れません。さて、どうなりますことやら……。(^^ゞ
人が「教養」を積むのは、「現実を知るため=現実に関する知識を得るため」というよりも「幻想を知るため=私たちが、いかに世界を見たいようにしか見ていないかを知るため」なのだと申せましょう。
「教養」の無い者がしばしば「迷信」に囚われるのは、彼が「現実」を知らないからではなく、大概は「幻想」というものを知らないからなのでございます。
ですから、「自分の見たいようにしか世界を見ることできない=幻想に生きる」人間というのは、本質的な意味で「無教養」なのだと申せましょう。逆に言えば、「現実を直視する強さ」さえあれば、「教養」など必要ないのでございます。
ただ、完璧に「現実を直視し」「幻想を排除できる」人などおりませんから、人は日々「知的な精進」を重ねるべきなのでございます。
そして最後に、まとめとして平たく言ってしまえば、「他人の評価」を求めている間は、人はまだまだ知的に未熟なのでございます。
本物は、そんな凡庸なことなど求めず、ただ「曇りなき目で現実を直視し、それと向き合う生き方」、つまり「他人」や「世間」ではなく、「世界と直接対峙する生き方」を求める。――「知的である」とは、そういう態度をいうのでございましょう。』
一般論的な表現なので少々わかりにくかったかも知れませんが、実例に即して考えれば、これはたいへんわかりやすいことなのではないかと存じます。
私は、加減乗除さまのことを、私やホランドくんよりも、明らかに「頭が悪い」、一般的基準に照らしても「頭が悪い」と評しました。これは無論、私やホランドくんが、特別に「頭がよい」ということを意味してはおりません。あくまでも、加減乗除さまとの比較においては、明らかに私たちの方が「頭がよい」と言っているに過ぎないのでございます。
これに対し、加減乗除さまはご自分の方が「頭がよい」と思っておられるようで、私やホランドくんのことをしきりに『バカ』だと評しておられます。
また、以前にもご紹介しましたとおり、加減乗除さまは、自身が書き込みをしている掲示板「問答有用」の管理者で、著名な平和運動家である 熊谷伸一郎氏についても「ネットに掃いて捨てるほどいる、ネウヨやネサヨと大差ない」存在であり、まったく評価していない、となさっております。
――つまり、加減乗除さまは、私やホランドくんや熊谷伸一郎氏よりも、自分の方が「頭がよい」あるいは「優秀である」と自己主張なさっているのでございますね。
まあ、人は、どのような意見や見解を持ち、それを表明しようと、それ自体は「自由」でございますから、加減乗除さまがこのように主張なさること自体は、大いに結構なことかと存じます。
しかしながら、「公的な主張」というものの多くは、それが「論理的あるいは客観的に正しい見解」であるという認識の存在を前提としてなされるものでございますから、普通であれば、このような主張には「論理的な根拠(論理的説得)」か「客観的事実(証拠)」の提示が伴うものでございます。
例えば、私や熊谷氏には、公にした文章の社会的な評価とその蓄積(出版物やホームページのコンテンツなど)がございます。しかるに、加減乗除さまには、そういうものが、まったく無い。
加減乗除さまにあるのは、「問答有用」への書き込みと、ここ「アレクセイの花園」への書き込みのみなのでございますが、さすがの加減乗除さまも、ここ「花園」への書き込みを、ご自身の「頭のよさ」をしめす「証拠」だとは、おっしゃらないのではないでしょうか?(……保証の限りではないにしても)。だとすると、加減乗除さまの実績と呼べるものは「問答有用」での議論のみということになるのですが、加減乗除さまは「問答有用」にとっては『敵』方であり「批判派」であるそうなので、その場において、加減乗除さまを高く評価する人が多いとは、到底考えられません。
加減乗除さまは、「ネットに掃いて捨てるほどいる、ネウヨやネサヨと大差ない存在」だと、否定的な評価を与えている熊谷伸一郎氏について、
> 私がクマさんの敵であるという位置づけは問答有用での議論で確立していますが、それでも尚かつクマさんは私のことをそれなりに評価してくださいます。
と書かれていますが、この『それなりに評価してくださいます。』とは、具体的にはどういうことなのでございましょう?
当然、政治的立場を異にするのですから、対立する「意見」そのものを評価するわけではないでしょう。となれば、その「姿勢を評価する」といったことになるのでしょうが、ここ「花園」への書き込みを拝見するかぎり、加減乗除さまの問題点は、その「政治的見解」よりもむしろ、その「人間性(幼児性)に由来する、言論に関する姿勢」にあると思うのですが、いかがなものでしょう?
それに、加減乗除さまは、「そこらのネサヨと大差ない」はずの熊谷伸一郎氏に『それなりに評価』されているのが、たいそう嬉しそうなご様子なのですが、これは奇態なことでございましょう。自分がまったく評価していないような、くだらない人間に評価されたって、普通そんなものは、嬉しくもなんともない。――ところが、加減乗除さまは、熊谷氏に『それなりに評価』されて、たいそう喜んでおられるご様子なのでございます。
結局のところこれは、加減乗除さまが、誰からもまともに評価されたことのない、評価(=他者からの承認)に飢えた方だという、何よりの証拠なのではないでしょうか。
だからこそ、自分が評価していない相手でも、自分のことを評価してくれれば(それは、稀有な事例として)嬉しいし、だからこそ、そんな相手ならば、「誉めてくれた」という感謝的好意に流されて、すくなくとも本音の部分では「論敵である私を評価するなんて、熊谷伸一郎もそれなりに大したやつだ」などと、つい「高く評価」してしまう、というわけでございます(つまり、加減乗除さまの語る「熊谷伸一郎の加減乗除評価」とは、加減乗除さまの「熊谷評価の裏返し」であり「願望充足的投射」である可能性が、きわめて高い。「私も評価しているのだから、相手も評価しているだろう。我々は好敵手である」といった幻想的自己満足)。
> 「頭の悪い味方より、頭の悪い敵の方が、利用価値が高い」ということを、貴方は知らなくても、熊谷伸一郎氏は知っているというだけの話でございますよ(笑)。
ということを書きましたが、無論、加減乗除さまはこれを「理解」なさってはおりません。だからこそ、これを、根拠を示して否定することをしようとはなさらない。
そもそも、こんなふうに(熊谷氏から、利用されている・踊らされている、と)は考えたくないから、この可能性からは目をそらし、そういう「イヤな可能性の存在」を指摘する、この私の存在の方を否定しようと躍起になられるのでございますね。
ですが、そんなことでは、ご自分の心は(一時的に)誤魔化せても、第三者の目は誤魔化せませんので、ここでは上の指摘を、さらに平易に解説して、いやでも加減乗除さまの「心の目」に触れるようにしておきたいと存じます。
「頭の悪い味方より、頭の悪い敵の方が、利用価値が高い」――これは、「頭の悪い味方」はしばしば足手まといにしかならないが、「頭の悪い敵」は騙して逆用できるということでございます。
知ってのとおり、掲示板「問答有用」は、「平和運動家」であり「左翼」に分類されるであろう熊谷伸一郎氏が立ち上げた、政治談義のためのネット掲示板でございます。
そしてそこへ、「右翼」として書き込みをしている工藤猛氏や、『敵であるという位置づけは問答有用での議論で確立しています』と自己紹介する加減乗除さまは、「問答有用」では、主催者である熊谷氏とそのお仲間とは、対立する意見の持ち主だと申せましょう。
さて、ここで考えていただきたいのは、熊谷伸一郎氏とそのお仲間の意見を、完璧に論駁してしまうような有能な論者(批判者)は、熊谷氏の掲示板である「問答有用」において、はたしてその存在を保証されうるものでしょうか?
もし、保証されるとすれば、その掲示板では「批判者の側の意見の正しさ」ばかりがアピールされることになってしまうわけですが、そんなことを掲示板を立ち上げた者が、容認し続けるものでございましょうか?
ましてや、あの「平和運動家論争」において、「異論排除」好きであることが明らかにされた熊谷伸一郎氏の掲示板において、そんなことがありうるものなのか?
という指摘があるとおり、その「批判」が鋭く本質的であったがために、掲示板「問答有用」から「排除」され(その事実まで隠蔽され)た批判者は、一人や二人ではないでしょう。
ならば、批判者や反体制派を標榜しながら、それでも「問答有用」に書き込みすることを、管理人である熊谷氏から「許され続けている人たち」とは、いったい「どういう意味を持つ存在」なのでございましょう?
そうした存在の実例として、私たちがよく知る、工藤猛氏と加減乗除さまを見るかぎりにおいて申しますならば、熊谷氏がこのお二人に書き込みを許すのは、彼らの存在とその主張が、熊谷氏にとって「まったく無害」であり「なんの痛痒も感じさせないもの」、つまり「批判・異論としての価値を持たないもの」だからだと申せましょう。だからこそ「泳がせてある」。
「毒(パルマコン=薬)になるやつ」におられては困るけれど、「毒にも薬にもならない存在=どうでもいいやつ」ならば、「枯木も山のにぎわい」で、別にいてもかまわないし、そんなやつが「批判者」「反体制」を名乗るのであれば、そういうやつは、いてもらった方が、むしろ「得策」である。
なぜならば、そういう「どうでもいいやつ」を泳がせておくだけで、世間に向けては「敵方の意見にも耳を傾ける公正さや寛容性」があると「見せかけること」ができるからでございます。
また、すでに指摘しておりますとおり、本質的な部分で「自信」が無いために「承認願望」が極めて強く、そのために「他者依存」的にならざるをえない、工藤猛氏や加減乗除さまのような存在は、自分たちを(ひとまず形式的にでも)受け入れてくれ、居場所を与えてくれる存在、換言すれば「甘やかせてくれる」存在には、極めて従順なのでございます。
たとえ、口では「いや、熊谷なんてぜんぜん評価していない」とか「私は、敵として認知された存在だ」などと、その「自立性」を自己アピールしてみたところで、本質的なところでは、
> 私がクマさんの敵であるという位置づけは問答有用での議論で確立していますが、それでも尚かつクマさんは私のことをそれなりに評価してくださいます。
また、熊谷伸一郎氏のようなしたたかな「政治人間」は、このような人たちの心の機微(弱さ)につけ込むのが極めて上手でございますから、「君とは、意見も立場も違うが、君個人には人間として見るべきところがあるね」などと(露骨な言葉にはしなくても、そうしたニュアンスを漂わせて)、相手の尻を掻いて(煽てて)「手なずける」ことくらい、平気でするのでございます。
――このくらいの芸当ができなければ、「党派」を形成して「動員」をかけるなんてことは、到底できることではないのでございますから。
しかし、裏を返せば、こういう「私は右翼だ(でも、あなた方も認める)」とか「私はあなた方の敵だ(でも、あなた方が好きだ)」といった「ヌルイ人(不徹底・半端な人)」だけが、「批判者」としてその存在を許容される場所(掲示板)での「議論」とは、いったいどのようなものなのでございましょうか?
――当然のことながら、それは「どうでもいい、ヌルイ議論(不徹底で半端な議論)」だということになりましょう。そこで、どのような応酬がなされようと、そんなものは、どこにも何にも、まったく影響を与ええないのでございます。
つまり、掲示板「問答有用」の存在意義とは、そこでの「議論の中身」にあるのではなく、「議論がなされているという形式」にあるのだと申せましょう。
「ここでは、いろんな意見が自由に表明され、活発な議論が交わされていますよ」ということ(=嘘)を「宣伝」できれば、それでいいし、それ(プロパガンダ)をするためにこそ、掲示板「問答有用」は、熊谷伸一郎氏個人とその党派の(利益の)ために、存在しているのでございます。
しかしながら、こういう「本質的なこと」は、そこで呑気に「政治談義」を交わしている人たちには、どうでもいいことでございます。彼らは、そこまで考えないし、考えたくもない。
譬えて言うならば、しばしばスポーツ選手というものは、オリンピックに参加することで「自分の成果」を発表できる機会を与えられるならば、そのオリンピックが、独裁国家のプロパガンダ(政治宣伝)ためのものであろうと何であろうと、そんなことをまったく気に掛けはいたしません。
その、きらびやかで尤もらしい表舞台の陰で、どれほど多くの人が犠牲を強いられていたとしても、そんなことは「私たちの競技には、なんの関係もないことだ」と、そう思いたがるのございますね(=オリンピック・ボイコット反対の論理)。
しかし、本当にそうなのでしょうか? この場合、彼らは、自らの自己実現・自己欲求のために「独裁国家のプロパガンダ」に加担している、ということにはならないのでしょうか?
たしかに「人々がネット上で、政治談義をすること」も「スポーツ選手が、新記録を目指して、華やかな舞台で活躍をすること」も、それ自体は、素晴らしいことでもあれば必要なことでもございましょう。――しかし、そういう「大義名分=きれいごと」の陰に、他人を犠牲にしてでも自己の欲求を満足させたいという「隠された本音」が、しばしば隠蔽されているという事実を、私たちは忘れるべきではないし、そうした「隠された本質」を指摘するのが、批評家の役目なのだとも申せましょう。
例えば、TVでも「政治討論番組」がいくつもございますが、それがどのような「文脈」において機能しているのかという考察なくして、そこでの発言を追うだけ人には、本当の「政治」の姿というものは、金輪際、見えてこないのではないでしょうか。
ご自身『書き捨て』だとおっしゃっているとおり、あまりにも中身のないゴミ投稿なので、最初は、これ以上みなさまのお目汚しにならないように、削除しようかとも思ったのでございますが、この、
という言葉が、あまりにも「加減乗除さまの本質」をよく表わした、じつに「捨てがたい言葉」でしたので、やはり残して、みなさまにご覧いただくことにした、という次第でございます。
でも、貴方さまは、「そこらのネサヨ」並みの熊谷伸一郎氏に認められているのが、嬉しいのでございますよね。お幸せだこと(笑)。
> やっぱりバカですね。私は彼の掲示板の管理人に対して「匿名」ではなく、よって無責任な発言はしていないと言っているのです。匿名が全体に対する公開だけを指すのではないことくらい理解できませんかね?ラジオの匿名希望さんとは違うのですよ。
『私は彼の掲示板の管理人に対して「匿名」ではなく、よって無責任な発言はしていないと言っているのです。』――ということは、管理人に本名を明かしていない掲示板では、貴方さまは『無責任な発言』をするのだとおっしゃるのですよね。「2ちゃねらー」同様に。
> あなたのようなバカに使い道があるとは思いませんがね。ま、そうやって泣き言を書き綴っておればよろしい。ここはあなたの花園なのですからね。
> 「おっしゃっておられる」などという馬鹿な日本語を使って揶揄しても御自分の馬鹿を晒すだけですがね。
> おや、自分の非は認めずに逃げるのですか?相手を批判するだけは批判しておいて、自分のことは棚に上げる。他人を批判する資格がないのはあなたのようですね。ま、絶対謝罪しないだろうとは思っていましたがね、このタイプの人間はいつもそうだ。
私はべつに、貴方さまのような「どこの馬の骨とも知れない」「頭の悪い」「無能・無名の」「匿名者」など、どうでもよいと思っているのでございますよ。しかしながら、熊谷伸一郎氏という有名かつ欺瞞的な平和運動家を批判するためには、熊谷氏の(無自覚な)「取り巻き」の一人である貴方さまは、ちょうどよい「素材」だったのでございます。つまり、本日、先に書きましたとおり「熊谷伸一郎は、こんな勘違い男を泳がせておくことで、自己の寛容や公正を、欺瞞的に演出して見せている」ということを指摘するために、やむをえず貴方さまのお相手をしたのでございます(したがいまして、今はもう「用済み」ですので、どうぞご安心くださいまし)。
それに私は、教育者でもなければ心理カウンセラーでもございませんから、貴方さまの人間性までどうこうするは出来ず、ただ「事実を指摘すること」しか出来ないのでございます。つまり、日頃、批評家としてやっておりますとおり「駄作は駄作としか言い様がない」としか書けないのでございますね。――無論、駄作の駄作たる理由は、示しますけれども。
それから、『何だ、逃げるのか』とのことでございますが、私は「叱られたことに逆上して、泣きながらむしゃぶりついてくる子供」とか「酔っぱらい」とか「精神錯乱者」とか「変態ストーカー」などからは、さっさと逃げることにしております。
そういう「言葉の通じない人」たちから「逃げるのか!」と言われて、意地になって、まともに相手になるなどというのは、あまりにも「おとな気ない」態度であり、みっともないことだと考えるからでございます。
ですから、「あしらっている」ような感じが窺えましたら、その点はどうぞご容赦下さいまし。私は決して、たとえ本名を聞かされたところで、どこの誰とも知れない貴方さまのことを、本気で憎んだりしているわけではないのでございます。まあ、「袖擦り合うも多生の縁」くらいにご理解いただければ、幸いと存じます。
では今夜も「僕は賢いんだ。アレクセイの方がバカなんだ。クマさんも僕のことを認めてくれている」と、百編唱えてから、就寝なさって下さいまし。――これからは、夢の中だけでお会いしましょう。

 

戻る

プロミスのサイトです。

プロミスのサイトです。