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エルサレムとは?/ プロミス

[ 217] エルサレム
[引用サイト]  http://www2s.biglobe.ne.jp/~elisha/guidemiddleeast-4.htm

エルサレムへ行ってまず目に付くのはやはり何と言っても旧市街を囲む城壁です。この城壁は聖書時代のものではなく、大半がオスマン・トルコ時代に作られたもので、さらに近年になってかなりの修復がされ手が加えられています。
城壁の上に上って歩くことができます。ヤッフォ門を入ってすぐ左側に入口があり、有料です。3百円位です。また、糞門とシオン門の間には普通の道路との接続点があって、無料で部分的に城壁の上を歩くことができます。
壁の上からは旧市街に住む一般庶民の家の裏側が見え、なかなか興味深いものです。また、旧市街の土地の高低の関係が良くわかります。
ダマスカス門とヘロデ門の間の城壁寄りに「ゼデキアの洞窟」と呼ばれる巨大な洞窟があります。時間があったら覗いてみてください。
ダビデの時代以前のエルサレムの集落は現在の城壁の南東部の斜面にあり、そこから北に向かって斜面を上りきった頂上がこの神殿の丘となります。当時はまだ現在のような高い建物や城壁は無く、モリヤの「山」と呼ぶにふさわしい地形であったと思います。
第二神殿の時代まで(紀元70年まで)ここに真の神様の神殿がありました。現在は、その中心に黄金のドームを持つイスラームのモスクが建っています。これは、ムハンマド(マホメット)が昇天した岩の上に立てられているのだと言われていて、「岩のドーム」と呼ばれています。私は偶像礼拝の場所にはできるだけ入らないようにしているので、中がどうなっているのかわかりません。外側から見るとたいへん立派な美しい建物で、現在はその黄金の巨大なドームがエルサレムのシンボルになっています。
もともとこのドームは灰色の石でできていましたが、東京オリンピックの年1964年、現在の金メッキを施されたアルミ板で覆われました。
イスラーム教徒にとって「岩のドーム」は一つの記念の場所にすぎず、神聖かつ最も重要な礼拝を行う寺院は、隣にある黒いドームの「エル・アクサ寺院」です。この寺院はその重要さの故に幾多の血なまぐさい事件の起きた場所でもあります。
神殿の丘は現在はイスラーム教徒によって管理されています。イスラームの聖日金曜日を除いて出入りは自由です。土曜日は西に隣接する「西の壁(嘆きの壁)」のユダヤ教が聖日となるため、ライオン門(ステパノ門)の近くの北東の入口から出入りする方が無難です。
神殿の丘は自由に歩き回ることができますが、建物の中に入るには入場券が必要で、中ではイスラームの習慣に従う必要があります。
神殿の丘の東の隅に行くと、黄金門を内側から見ることのできる場所があります。そのあたりからはオリーブ山を最も美しく見上げることができます。
聖書時代の神殿の跡は、現在は西の壁以外には残っていません。そしてこの「西の壁」(またの名「嘆きの壁」)がユダヤ教の最高の聖地となっています。「西の壁」は神殿の丘の南西、糞門を入った右側となります。この「西の壁」もエルサレムのシンボルのような風景で、しばしばテレビや雑誌に出てきます。左側が男の祈祷区域、右側が女の祈祷区域です。立ち入りは自由ですが、頭を覆うものを必ず付けて入らなければなりません。帽子または入口で貸してくれる紙のキッパーを付けて入ります。
左側にトンネルの入口のような所があり、ここを入って行くと、ユダヤ教の集会所になっています。ここでもたくさんのユダヤ教徒が祈っており、またたくさんのタナハ(ユダヤ教の聖書=旧約聖書)やその他のユダヤ教文書が貸し出し用に並べられています。 その近くでさらに地底に埋もれている神殿の壁の部分を見ることができます。深い穴が空いていて、照明で地底深くまで見えます。現在の壁の上の方は大半がオスマン・トルコ時代のもので、「本物」のほとんどは地下部分です。
西の壁(嘆きの壁)と黄金のドームを手に取るように展望できる穴場があります。北西の検問所から左側に曲がって、ユダヤ人地区の路地の中に入って行くと、西の壁の地面の高さから4階建ての建物の屋上の高さの位置にたいへん小さな広場があります。その東端から眺める西の壁、神殿の丘、オリーブ山の展望は幻想的です。あまり人通りのない入り組んだ路地なのでわかりにくいかもしれませんが試してみてください。
西の壁に近づく場合、どの方角から行っても金属探知器を必ず通らなければなりません。また、最近はかなり緩やかになって行わない場合が多いのですが、手荷物検査がある場合もあります。尚、安息日とユダヤ教の祭日は写真撮影厳禁です。
聖書時代の神殿およびエルサレムは、後に出てくるホーリーランド・ホテルの詳細な模型があるので、それを見るとほぼ正確に形状を把握できます。
マリアが訪問した山里のユダの町はアイン・カレムだと言われています。アイン・カレムには、訪問教会、マリアの井戸などがあります。山間の静かな美しい集落です。
聖書とは関係ありませんが、ヤッド・バシェム(虐殺記念館)はエルサレムではぜひ一度訪れたい場所です。バスは多数の路線が通っています。
ホーリーランド・ホテルには、聖書時代=第二神殿時代の正確な50分の1の模型があります。ひじょうに精巧な模型で、材料の石も厳選されていて正確に当時のエルサレムを再現しています。
多数の展示館がある中で、聖書と深く関係のあるのは、死海写本館です。玉ねぎの頭のような形をした白い独特な建物が目を引きます。ここに写本が展示されています。
「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さい者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治めるものが出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」 (ミカ5−1)
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『 … 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。・・・」 (ルカ2−8〜)
ベツレヘムはもちろん降誕の地としてあまりにも有名な所です。現在の町の中央部に「降誕教会」、街の外れ1km位の所に「羊飼いの野」と呼ばれる野原があり、小さな教会が建っています。
また、ベツレヘムに向かう途中、ベツレヘムの手前2km位の街道の右側に「ラケルの墓」とされているユダヤ教の聖所があります。
ラケルの墓から少し先から南はパレスチナ暫定自治区となります。ベツレヘムへはエルサレム旧市街北のダマスカス門近くからアラブのバス、または乗合タクシー(シェールート)で行きます。検問が無ければ30分程度で着きます。
「その後アブラハムは、カナンの地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。」 (創世記23−19)
ベツレヘムからさらに南に15km程の所にヘブロンがあります。ヘブロンにはアブラハム、ヤコブ、イサクらの墓「マクペラの洞窟」があります。実は正確な場所は不明なのですが、地下に洞窟のあるとされる場所に大きな記念の建物が建てられています。ユダヤ教とイスラーム教両方の聖地で、周辺のヘブロンの居住問題も絡み、時々衝突が起こっています。
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことがない子ろばがつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、《なぜ゜そんなことをするのか》と言ったら、《主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります。》と言いなさい。』」 (マルコ11−1//ルカ19−28/マタイ21−1)
ベタニアは、マリアとマルタの町、ラザロを生き返らせた町、そして、十字架にかかるためにエルサレムに向かったイエス様が多くの貴重な言葉を残した場所です。
ベタニアはオリーブ山の東側のふもとにある町です。エルサレム旧市街の東端から約3kmの道のりです。アラブのバスまたはシェールートでも行けますが、オリーブ山の頂からは2km程度なので、徒歩でも行けます。
「主の祈りの教会」と小さい方の「昇天教会」の間に、普通車がやっとすれ違える程度の狭くて急な坂道が東へ下っていきます。図12の6番と7番の間です。カーブしている道の両側は高い塀があって見通しはききませんが、これがオリーブ山からベトファゲを通ってベタニアに向かう最短の道路です。下りなので、まっすぐ行けばベタニアへは30分はかかりません。
ベタニアとオリーブ山の山頂との間にベトファゲ(べテパゲ)の集落があります。ベトファゲにも「ベトファゲ修道院(図12−12)」が建っていて、見学可能です。ベトファゲはベタニアとオリーブ山の頂との間の道路沿いにあり、バスは通っていません。上記の道を徒歩またはタクシーで行くことになります。
「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った。」 (サムエル下15−30)
「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブの山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。」 (ゼカリア14−4)
「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに保塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからだ。』」 (ルカ19−41〜)
「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。』と言われた。ペトロおよびゼベタイの子二人を伴なわれたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしとともに目を覚ましていなさい。』すこし進んで行って、うつぶせになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』…さらに二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』…三度目も同じ言葉で祈られた。…『…時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』 (マタイ26−36〜//マルコ14−32〜,ルカ22−39〜)
ベタニアとベトファゲを通ってろばに乗ってのエルサレム入場、過ぎ越し祭の間の夕方と夜の滞在、そしてゲッセマネの祈りと逮捕… オリーブ山は、十字架直前の多くの重要なことがあった場所です。
また、使徒1−12にはこの山からの復活のイエス様の昇天が記され、ゼカリア書14章と黙示録14章の記事からはこの山が地上への再臨の場所と読み取ることができます。
オリーブ山はエルサレムの東の800m位の高さのなだらかな山です。エルサレム旧市街の平均標高は700mと少しですから、エルサレムの町の中から見ると小高い丘に見えます。オリーブ山のエルサレム側斜面(西斜面)にはいくつもの教会が建てられ、山肌はオリーブの木で緑色に覆われています。山頂はアラブ人の町が広がっています。
山の尾根を北へ向かって町を抜けて行くと、右に高い塔のあるオーガスタ・ビクトリア病院、さらに行くとヨルダン渓谷から死海、モアブの山々を展望できる展望台に出ます。さらに北へ行くと尾根はスコープス山に続き、ヘブライ大学に着きます。さらに北に進むとハダサ病院、それを抜けるとフレンチ・ヒルの住宅街です。ここにエルサレム日本人教会があります。この教会については別記していますのでイスラエルの目次に戻ってください。
オリーブ山は旧市街からそれほど遠くないので歩いて行けます。ライオン門(図12の1番)を出ると眼前にオリーブ山が広がります。門の前から続く下り坂を下り、交通の激しい広い通りに出ると、ゲッセマネ方面が見えてきます。ゲッセマネの万国民教会(図12の3番)の北隣の道を登って行くと、オリーブ山です。
ライオン門を下ったところからゲッセマネまではたいへん交通が激しいので、車に十分注意してください。ゲッセマネからオリーブ山の展望台まではたいへん急な坂道なので、心臓の弱い方などはゆっくり登ってください。山頂や展望場までタクシーも利用可能です。
山頂の町の南の外れに二つの昇天教会があります。一つはロシア正教会のもので、一番目立つ高い尖塔のある教会です。もう一つは丸い石のドームの小さなもので、現在はイスラーム教徒の管理となっている建物です。図12の7番。
昇天教会から南に少し下った角にあるのが主の祈りの教会です。図12の6番。壁には日本語を含む60か国語で主の祈りが書かれています。日本語のものは室外の大きな壁ではなく、室内の奥の壁に小さく書かれていますので、見落とさないようにしてください。
主の祈りの教会を出て道路を南に200m程下ると左手にホテルが見えてきます。その前には大型バスの止まれる広さの広場があり、そのすぐ近くの西斜面にエルサレム旧市街を見下ろす展望場があります。図12の11番。たいへん眺望の良い所ですが、ここは団体の観光客であふれ、土産物売りやラクダ引きがしつこく声をかけてくるので、落ち着ける場所ではありません。エルサレム旧市街を見下ろす最適の場所は、次の涙の教会です。
展望台から北へ少し戻ると、西のエルサレム城壁側に下る石段があって、それを降りたところこから、ゲッセマネまでの急な道路が続いています。この道はバスは通れませんが乗用車は通れます。100m程下ると右側に主の涙の教会があります。(図12の5番)涙をかたどった独特の形のドームの建物です。この教会の中庭からはエルサレム旧市街が大変良く見えます。またドームの礼拝堂作られた大きなガラス窓からは旧市街中心部が幻想的に見えるようになっています。
坂道を降りた所から南のオリーブ山のふもとの一帯がゲッセマネです。ここにはゲッセマネ・万国民教会があります。(図12の3番)
これがケデロンの谷です。1がギホンの泉、2がシロアムの池、この間に人が1人通れる位の水道トンネルがあります。
「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム(遣わされたものという意味)の池に行って洗いなさい』と言われた。」 (ヨハネ9−6)
エルサレムの聖書記事の場所で位置が特定できる数少ない場所の一つがシロアムの池です。聖書の記事と同一の場所に現在もシロアムの池があります。聖書の時代には現在よりも広い池で周囲の様子も異なっていましたが、位置は同一です。
この水はギホンの泉からトンネルを通って流れてきます。これが列王記20−20のヒゼキアの作ったものです。
ケデロンの谷へはゲッセマネからも城壁の南東のあたりからも歩いて降りて行けます。ゴミやガレキの散乱する汚い地区で、アラブ人のスラムという感じです。私は知らずに谷底に下り、ギホンの泉からシロアムまで歩きましたが、後で現地のガイドの人に聞いたところでは、治安が悪いので一人で谷には下りて行かない方が良い、とのことでした。
「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄ってきて、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた』と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、『何のことを言っているのか、わたしには分からない』と言った。…
現在のシオン門の南側は城壁の中から続く高い土地となっています。ここがシオンの山(丘)です。南はヒンノムの谷に下ります。第二神殿時代の「上の町」で、祭司の家などがありました。この地域に大祭司カイアファ(カヤパ)の家もあったと思われます。正確な位置はわかりませんが、現在一つの可能性のある場所に鶏鳴教会が建てられています。鶏鳴とはペトロが三度否認した後の鶏の鳴き声から取られたものです。
この教会の脇に2千年前の石段が発掘されています。この石段を通ってイエス様は連行されてきたのかもしれません。
シオンの丘にはこの他、エルサレムで最も大きくて目立つマリア永眠教会があります。その隣に「ダビデの墓」とされている場所があります。また、その2回に「最後の晩餐の部屋」という所がありますが、聖書の記事とは一致しない代物です。
「それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。」「…イエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。「そしてゴルゴダという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。」 (マタイ27章、//マルコ15,ルカ23,ヨハネ19)
大祭司カイアファの家に一晩留置された後、イエス様はピラトの前に出され、裁判を受けます。この朝ピラトがどこにいたかはわかりません。そして十字架刑が確定し、総督官邸の中に連れて行かれます。聖書に「総督官邸」と記されているエルサレムの総督の居城がどこだったのか、これも確定的なものはありません。アントニア要塞(図14−2)かまたはヘロデの宮殿(城砦と呼ばれる現在のヤッフォ門の近くの建物・図14に記入)のいずれかであろうと考えられています。この2つのいずれだったかによって「十字架の道」は大きく変わります。
ゴルゴダの位置も正確には分かりませんが、最近の考古学の結論では、現在の聖墳墓教会付近のどこかであることがほぼ確定的となっています。
以上のような不確定な要素と、2千年前のエルサレムの地表は現在のエルサレムの地表よりも数メートル下に埋もれていることにより、「十字架の道」が果たしてどこだったのかは不明となっています。
実際の十字架の道は、現在の地表よりも数メートル下にあります。黄緑色でおおよその概形の線を引いたルートです。
ライオン門から入ってしばらく進むと右手にアンナ教会があります。この教会の奥にべテスダの池の発掘された場所があります。これがヨハネ5章に出てくるべテスダの池です。エルサレムで数少ない聖書記事の場所のはっきり確定できる場所のひとつです。
エッケ・ホモ教会の3階4階は宿泊施設(クリスチャン・ホスビス)になっています。私はここに3泊してみました。エッケ・ホモ教会の屋上からは、神殿の丘、旧市街、オリーブ山が良く見渡せ、また旧市街を歩くのには好都合の宿泊地でした。
ヴィア・ドロローサの両側は土産物屋等が並び、かなり騒々しくなっています。昼間は団体客が列をなして歩き、金曜日の午後にはフランシスコ会の主催する十字架の行進にたくさんの人々が参加して歩きます。
ヴィア・ドロローサの終点聖墳墓教会は、大きな建物のつなぎあわせで、世界中のたくさんの教派が管理しています。ローマ・カトリックやギリシァ正教会はもちろん、アルメニア、コプト、エチオビアなどのキリスト単性論の立場の教会も含まれています。聖墳墓教会の内部の説明は大体のガイドブックに載っています。
聖墳墓教会の位置はゴルゴダに近似していますが、当時のゴルゴダの丘とは全く違った雰囲気に作り変えられてしまっています。当時のゴルゴダの雰囲気に近いのは、次の「園の墓」のある場所です。
「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを収めた。」 (ヨハネ19−41)
旧市街の北側に東西に走る道路がスレイマン通りです。ダマスカス門を出てこのスレイマン通りを横切り、人が群がっている方へ歩いて行くと、アラブのバスステーションに行き着きます。その北側に見えるどくろのような丘が「ゴードンのカルバリ」という場所です。(カルバリとはラテン語でゴルゴダ。どくろ、されこうべという意味)ここは1883年にイギリスのゴードン将軍が「ここが十字架と埋葬の場所だ」と指摘したところです。
丘の近くには墓の跡があって、近くには聖書に記されているような園があり、「園の墓」と名付けられています。イギリスのプロテスタント教会によって管理されています。緑豊かな静かな園で、礼拝用のベンチと説教台のセットが多数並べられています。世界中から来るクリスチャン(主にプロテスタント)の団体がここで礼拝の時を持っています。
残念ながらここは中世の石切り場の跡であることが判明しましたが、ゴルゴダと埋葬された墓の雰囲気をそのままに残す場所として極めて有意義な場所です。
園の墓へはダマスカス門から徒歩で5分、アラブのバスステーションの西の道を進んで右側に、目立たない入口があります。
中にはイギリス人の宣教師がいて、ガイド(説教)をしてもらえます。宣教ですからもちろん無料です。エルサレムには多くの教会その他の訪問場所がありますが、いずれも喧騒の中にあり、また、旅行者を相手にする詐欺まがいのガイドや商売人で溢れています。しかし、この「園の墓」はそれらとは関係ない落ち着ける場所です。
また、「園の墓」の売店には普通の土産物の他に資料も売っていますので、「園の墓」は時間の余裕をもって訪問することを勧めます。

 

[ 218] エルサレム
[引用サイト]  http://www.nes-lab.com/growup/jerusalem.html

エルサレムには、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大宗教の聖地があり、昔から、さまざまな聖書の物語の舞台となったり、紛争の原因になってきました。ユダヤの歴史は、約4000年くらい前に、族長のアブラハム、その子のイサク、その子のヤコブによって始まり、旧約聖書にアブラハムが唯一の神に出会ったことについて書かれています。旧約聖書によると、神はアブラハムに、その子孫を星の数ほど多く、約束の地に増やすことを約束されました。その後、ヤコブの時代に、国に飢饉が起こったとき、ヤコブ(イスラエル)と、その一族はエジプトに下ってゆくことになりましたが、エジプトで、奴隷の身となり400年間、苦しみの生活をおくり、ついに、モーセが出現し、エジプトのパロの前にさまざまな不思議な出来事を見させ、イスラエルをエジプトから開放しました。そして、モーセは、イスラエルを神の山、ホレブに導き、十戒を受けさせましたが、そののち、イスラエル民族は40年にわたり、荒野をさまようことになりました。しかし、モーセの死後、ついに、約束の地に入りました。
この後、イスラエルは、ダビデ王、ソロモン王の治世に、全盛時代を迎え、ダビデ王は、エルサレムを首都に定め、イスラエルの12部族を1つの王国に統一し、また、その子である、ソロモン王はその治世に、壮大な神殿の建設を成し遂げました。その後、イスラエルはイスラエル王国とユダ王国に分裂して、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされてしまいました。ついで、紀元前586年、ユダ王国も、新バビロニアのネブカドネザルにより、その首都だったエルサレムの神殿を破壊され、ユダヤ人は、バビロン捕囚とされました。しかし、ユダ王国の滅亡の約50年後、ペルシャの王、クロスはユダヤ人の開放を宣言してエルサレムへの帰還を許し、神殿を再興するように命令を出しました。エルサレムは、この後、紀元前、538年〜142年まで、ペルシャやギリシャによる占領下におかれました。 。 現在のエルサレム
イエスは、ベツレヘムに誕生し、30才の時から、3年にわたり、きたるべき神の国について述べ伝え、病気の人々や貧しい人々を癒し、助けながら、ユダヤの地を巡回しました。エルサレムにおいて、人の罪の贖いとして、自ら、十字架につけられることに甘んじ、ゴルゴダの丘で、十字架にかかって、処刑されました。こののち、新約聖書には、弟子たちの、復活したキリストとの出会いが伝えられ、キリストの精神に満たされた弟子たちの活躍による、使徒行伝の時代が始まりました。弟子たちは、キリスト教を、エルサレムからローマまで伝え、キリスト教は、中世のヨーロッパの精神文化の土台となりました。こんにち、ローマのバチカンには、キリスト教をローマまで伝えた、ペテロやパウロの像が建っています。また、エルサレムには、こんにちでも、ヴィア・ドロロサ(悲しみの道)のような、イエスが十字架を背負いながら歩いた道などの、イエスと弟子達の時代の出来事があった、数多くの場所が、聖地として、保存されています。
また、ヘロデは、この時代に神殿の大補修を行いましたが、紀元70年、エルサレムとその神殿は、ティトスの指揮したローマ軍に、完全に破壊されてしまいました。エルサレムの西壁(嘆きの壁)は、これらの時代の神殿の城壁の一部で、現在、ユダヤ人が、祈りを捧げる聖なる場所となっています。
こののち、エルサレムは、ローマのコンスタンチヌス帝が、キリスト教に改宗したことや、ビザンチン帝国が樹立されたことなどにより、キリスト教徒の支配下に置かれました。
しかし、紀元610年頃、イスラム教がサウジアラビアに起こり、アラブ人が勢力をもち始め、教祖、マホメッドの死後、アラブ人は、エルサレムを征服し、1099年まで支配しました。紀元638年、第2代カリフの、オマルは、エルサレムに入城しました。また、691年には、ウマイヤ朝カリフ、アブド・アルマリクは、エルサレムに岩のドームを建てました。このドームの内部の中央には巨大な石が置かれており、預言者モハメッドが、この場所から昇天したとの伝説があります。また、ユダヤ教の開祖、アブラハムが、神の啓示により、そのひとり子の、イサクを捧げるようにと、その信仰を試みられた場所ともいわれます。
しかし、紀元1099年〜1291年頃になると、ヨーロッパ各地から十字軍が聖地を異教徒から奪回するために、エルサレムに押しよせてきました。1099年7月、第一次十字軍は、エルサレムを包囲して攻撃し、ラテン王国を建て、そこに住んでいた非キリスト教徒をほとんど殺してしまいました。しかし1187年、クルド人のサラディンは十字軍を破り、ユダヤ人にも、エルサレムに定住する権利などを与えましたが、サラディンの死後イスラエルは十字軍に奪回されました。
紀元後まもなく、ユダヤ人はローマ軍により、祖国を攻撃され、パレスチナから追われ、離散の民となり、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカ大陸などに、広がってゆきました。ユダヤ人たちは、移住先において、その文化的、宗教的背景の相違から、迫害をたびたび、体験しましたが、流浪の先でも、アブラハムが、神と契約で与えられた、「乳と蜜の流れでる約束の地」を忘れることはありませんでした。長い世紀が過ぎ、19世紀になると、ユダヤ人の間に、ユダヤ人はふたたびパレスチナの地に戻って、自分たちの国を建設しようという、シオニズム運動がおこりました。1917年、イギリスの外相バルフォアは、シオニズム運動に対するイギリス政府の支持を、バルフォア宣言により、イギリスのユダヤ系住民の指導者、ロスチャイルド卿に、文書通達しました。
パレスチナは、4世紀のあいだ、オスマン帝国の支配下にありましたが、第1次世界大戦後、イギリスの委任統治領となり、多数のユダヤ人が移住するようになりました。ここに、長い間パレスチナで生活してきたアラブ人と、ユダヤの移住民との間で、摩擦がおき、パレスチナ問題として発展しました。
イギリスは、第1次世界大戦中、トルコと戦うために、ユダヤ人の助けを必要とし、1917年、バルフォア宣言を行い、ユダヤ人が、パレスチナの地に、自分たちの国を建設できることを約束し、これに基づいて、ユダヤ人のパレスチナ移住が、始まりました。
しかし、イギリスは、同時に、トルコとの戦いを、有利にするために、トルコ領内のアラブ人の助けももとめ、1915年に、アラブの指導者、フセインとの間に、フセイン・マクマホン協定を結び、アラブ人がトルコから独立して、パレスチナなどの西アジアに、パレスチナ国家を建国することを、承認する二重の約束をしました。
第1次世界大戦で、トルコが破れると、パレスチナは、イギリスの委任統治となり、ユダヤ人とパレスチナ人のあいだに、暴動やテロが続発しました。
1937年、イギリスは、パレスチナを、ユダヤ人とアラブ人の国に分割する提案を、行いましたが、アラブ側は拒否しました。しかし、第2次世界大戦中に、ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害が強くなり、多くのユダヤ人が、パレスチナに移り住みました。そして、ナチス・ドイツの残忍なユダヤ民族の抹殺計画により、数百万のユダヤ人が、ホロコーストされたため、ユダヤ国家の必要性が、強く世界中にアピールされました。
これに対して、アラブ諸国は、反対行動を起こし、パレスチナに侵入したため、第1次中東戦争が勃発しました。
こののち、1976年、国連総会において、イスラエルやアメリカ、イギリスの反対が押し切られ、パレスチナ国家建設案が決議されました。
イスラエルでは、1967年の6日間戦争で、イスラエルが、ヨルダン川西岸とガザ地区を占領したため、1987年以降、これらの地区でパレスチナ人の、激しい抵抗活動やテロが続きました。これらの抵抗活動の結果、1993年、パレスチナは、イスラエル国家を、独立国として認めるかわりに、イスラエル占領地の暫定自治を、イスラエルに認めさせました。しかし、現在にいたっても、市内における爆弾テロなど、反イスラエルの抵抗活動は止んでいません。
イスラエルでは、各地への入植が盛んだったころ、ユダヤ人の集団農場である、キブツの設立が奨励されました。キブツは、人々が一緒に住んで働く共同体で、そうすることによって、敵からも身を守ることができる共同体でもありました。

 

[ 219] 聖都エルサレム
[引用サイト]  http://www.ijournal.org/IsraelTimes/history2/holycity.htm

コホバの乱失敗によってユダヤ人はエルサレムに住むことを禁じられ世界中に離散することになった。その際、エルサレムはアエリア・キャピトリーナと改称された。第二神殿の跡地にはローマの神であるジュピターを祭る神殿が建てられ、イエスが処刑されたゴルゴダの丘にはヴィーナスの神殿が建設された。
ローマの支配下の元でキリスト教は着実に広がっていた。しかしキリスト教信者が一切の偶像礼拝を拒んだことは社会の安定と秩序を脅かす犯罪とみなされた。ローマ帝国はキリスト教の迫害を始めた。迫害は初め地方レベルで、散発的であった。しかし3世紀半ばになるとローマ帝国は国家の方針としてキリスト教に対して本格的に弾圧を加え始めた。ところがそのキリスト教に転機が訪れたのがコンスタンチヌス大帝の登場である。313年のミラノ勅令をもって、ローマ帝国はキリスト教を合法的なものとみなした。そしてそれはエルサレムにとっても転機となった。
コンスタンティヌス大帝の母ヘレナは熱心なキリスト教徒でコンスタンチヌス大帝のキリスト教受け入れにも影響を及ぼしたと考えられている。そのヘレナのイエス
キリストにゆかりのある場所が特定され、教会が次々と建設された。現在キリスト教徒が聖地巡礼に訪れる教会などはこの時代に由来を発するものが多い。バル
キャピトリーナの呼ばれていたのも再びエルサレムと改称された。キリスト教の聖地としてのエルサレムの始まりである。
570年にサウジアラビアのメッカに生まれたモハメッドは40歳のとき、啓示を受けイスラム教の布教を始めた。その後イスラム教はアラビア半島全域に広がった。2代目カリフのオマール
カタブは 634年に当時エルサレムを治めていた東ローマ帝国に対する戦いを始めた。638年、東ローマ帝国のエルサレム統治者であったキリスト教徒ソフロニウス主教はイスラムのオマール
カタブに戦わずして降伏した。アラブ側の記録によるとその際の条件はユダヤ人をエルサレムに住ませないことであったそうである。しかし最終的にはキリスト教徒もユダヤ教徒も自由に礼拝を行うことが認められたようである。
モハメッドは実際にはメディナで死んでいたが、幻となってユダヤの神殿の上に現れ、昇天したとイスラム教徒は信じているそうである。それゆえエルサレムはイスラム教徒にとっても特別な地と考えられている。
「かれに栄光あれ。そのしもべを(マッカの)聖なるマスジドからわれが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに夜間旅をさせた。」
7世紀の終わりにかけて、現在エルサレムのシンボルともなっている岩のドームと呼ばれるモスクがユダヤ教の第二神殿跡に建設された。このドームの中にイスラム教徒がモハメッドが昇天した場所と考えている岩がある。イスラム教の聖都としてのエルサレムの始まりである。

 

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