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語り手とは?/ プロミス

[ 397] ノベルゲームにおける「選択肢」と「語り手」について
[引用サイト]  http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column100.htm

ノベルゲーム、ビジュアルノベル、サウンドノベル、いろいろな呼び方をされるが、簡単に言えば、「読者が選択肢を選ぶことで物語の展開に介入するようなノベルとゲームの混合物」ということになろうか。
このようなゲームは、これまでのジャンル、小説、漫画、映画等々にはないような、独特の構造をもつ。その構造の内実が、考察の対象になるわけだ。すでに、いろいろな論者がいろいろな方法で分析している。
第二に、ノベルゲームの一般的な構造を提示しようとする志向が強いため、具体的な作品の解釈にその考察がどのように生かされるのかが、等閑に付されている場合が多いこと。
このあたりの手薄と思われるところを、「選択肢」と「語り手」に着目しつつ、埋めてみたい。(いやそれほど手薄ではないぞ、というのであれば、すみません。)
ノベルゲームの特徴として、まず目につくのが、やはり選択肢の存在である。まずはここに着目して議論を進めたい。選択肢の機能とはなにか。
多くのノベルゲーム論が、「選択肢を選ぶことにより、その後の展開が変化する」ことをその特徴として強調する。しかし、この主張には難点がある。
たとえば、『Phantom』は、しばしば携帯する銃器を選択させる。しかし、それによってその後の物語の展開が変化することはない。このような選択肢の機能は、先の理屈では割り切れない。
さらに言えば、一般的に言って、選択肢の数は、シナリオの大きな分岐と比べると、かなり多いのが普通である。
たとえば八通りもの分岐を構成するためでも、二択の選択肢が三つあれば足りる。しかし、多くのノベルゲームでは、より多数の選択肢を立てて選ばせることで、シナリオの分岐を管理しようとする。なぜ選択肢は過剰に提示されるのだろうか。
「選択肢を選ぶことにより、その後の展開が変化する」ことを重視する観点からすると、分岐の数にたいする選択肢の過剰は、「フラグ立てにおけるゲーム性を高めるため」というように解釈されがちだ。
しかし、これは間違いではないが、唯一の答えではない。選択肢はたとえ分岐とは無関係であっても、提示されるだけで独特の機能をもちうるのである。二点指摘しよう。
第一に、選択肢は、読者ないしはプレイヤーの登場人物への感情移入を促すための道具立てとして機能する。
ノベルゲームにおいて、選択肢が提示されたとしよう。この選択肢は、登場人物の行為にかんするものである。しかし、当然のことながら、選択肢を選ぶのは、プレイヤーすなわち読者である。つまり、選択肢の選択において、読者は登場人物に同一化するわけだ。
もちろん、そうではない場合もある。選択肢が合理性だけで割り切れるようなものであれば、同一化において感情移入は不要であろう。
キャラクターつきのパズルゲームやクイズゲームを解く場合を考えてみよう。このとき、プレイヤーは選択肢の選択において、キャラクターと同一化する。さて、ここに感情移入はなんら必要ない。ただたんに、プレイヤーの選択が、ゲーム内のキャラクターの選択と一致するだけだ。それだけで十分である。
しかし、一般論として、選択肢における同一化が感情移入を深めるために利用できる、ということは言えるだろう。
ノベルゲームには選択肢がある。ここで重要なのは、選択肢は複数あるのだが、一つしか選べない、ということである。さて、この「選ばれなかった選択肢」をどのように位置づけるべきだろうか。
素朴に考えれば、これは、「そのときに登場人物が考慮はしたが実行に移さなかった行為」を示したものである。こうなると、選ばれなかった選択肢は、登場人物の心の中にしか存在しえないことになる。つまり、選択肢は、登場人物の内面描写を含意するのである。選択肢が提示されることそのものが、その時点で登場人物の心に迷いが、逡巡があったことの描写になりうるのだ。
もちろん、あらゆる選択肢が内面描写になるわけではない。たとえば、「フィールド型RPGをやっているときの十字キーは、北か南か東か西か、どこへ行こうかという登場人物の内面を描写している」と述べるのは、やはり極端にすぎるだろう。内面描写抜きで、たんに行動のみを選択させる、という選択肢もあるわけだ。このときの選択肢は、その状況における合理的な行為の可能性を示したものである。これならば、登場人物の内面と切り離して提示することができるだろう。
しかし、やはり一般論として、選択肢が、登場人物の内面描写の一つの手法として、それも、ノベルゲーム以外のジャンルには不可能な手法として利用できる、ということは確保できる。
選肢に複数の機能があることを指摘した。その後の展開を変化させること。感情移入を深めること。内面描写を与えること。
『Phantom』における一見無意味な選択肢の数々は、読者の主人公への感情移入度を深める役割を果たしている。軽い選択肢を先に繰り返し示しておくことで、続く「その後の展開を変化させる選択肢」のインパクトを強める仕掛けになっているのだ。捨て選択肢を重ねることで、決めの選択肢の破壊力を高めることができるわけだ。
たとえば有名な逆狙撃のシーンでの「初弾を故意に外すか否か」の選択肢などを想起されたい。それまでに十分に移入度を高めているからこそ、あの選択肢が読者にすさまじい緊迫感をもって迫ってくるようになっている。また、ラスト近くになっての、「エレンかキャルか」の選択肢も同様である。主人公の立場に深く移入しているからこそ、ここでどちらかを選ぶことに、たんなるギャルゲー的フラグ立てを超えた重さを感じさせることができている。
『家族計画』における選択肢は、主人公である沢村司の内面描写としての要素がかなり強い。それを選ばせることでフラグを立てさせるということ以上に、「そんな選択肢が心に浮かんでしまった」という司の内面を、コミカルに(ときにシリアスに
シリアスな方向では、たとえば、真純の預金通帳を手にとったときに、ふっと司の心に浮かんでしまう選択肢などを思い出してもらいたい。あそこは非常に上手い。
さらに、選択肢を細かく出すことで、選択肢が提示されないことが印象深くなるという効果もある。たとえば、家族計画の終了を告げる寛を殴ってしまうとき。選択肢が出ないことが、行為の衝動性を表現しえている。また、真純シナリオで、絶対に真純を抱こうとしない司、なんてのも、選択肢のなさが司の迷いのなさを表現していると言える。
多くのノベルゲームが、単独主人公の一人称視点からの語りを採用している。そして、選択肢も、この人物の行為にかんしてのみ、提示されるのが普通である。これは、あまり不思議なことではない。
ノベルゲームは、選択肢において読者と登場人物を同一化させる。通常、読者は物語の語り手の視線に立つので、同一化の対象は語り手であるのが自然である。また、複数の語り手を入れ替えることは、同一化の対象を混乱させることに繋がるので、これまた難しいわけだ。
『Phantom』は基本的に主人公視点からの語りで構成されている。これは原則どおりだ。だが、物語中で、語りがヒロインであるエレン(アイン)の視点に切り替わる決定的なシーンがある。
長いプロローグが終わり、無邪気な少年だった主人公が血に汚れた殺し屋に完全に染まってしまった描写がなされる。そこで、主人公は、自分を見つめるエレンの視線に気づく。どうしたのかと問う主人公に、エレンは次のように答える。
そして、この台詞に続いて、エレン視点での、エレンの内面的独白の描写が続くのである。そして、それが終わった後で、場面は切り替わり、物語は大きく動き出すことになる。つまり、ここでの語り手の変更は、物語の序盤の終わりを印象深く示すものになっているのだ。『Phantom』屈指の名シーンの一つである。
注目すべきは、このインパクトがノベルゲーム独特のものであり、たとえば小説では出しにくいものであることだ。
既に述べたように、ノベルゲームでは主人公が語り手に固定されるのが原則である。『Phantom』も、細かい選択肢を重ねることで、読者の語り手への同一化を強めてきたのだ。この語り手の変更は、ノベルゲーム的にはあってはならない、きわめて破格の表現である。
その破格さゆえに、このシーンは、「導入はひとまず終わり、ここから物語が本格的に動き出すよ」という予感を読者の心に叩き込むことに成功している。同じことを小説でやっても、ここまでの効果は出ないだろう。小説においては、語り手の変更がそれほど重くはないからだ。
ちなみに、角川スニーカー文庫のノベライズ版では、この語り手の変更の部分が削られてしまっている。どういう意図かは知らないが。
これまでは、語り手は基本的に主人公に固定されていた。そして、主人公の視点から、心の内を見せないヒロイン大河原準を描いてきたわけだ。
それが、エピローグに至って一変する。まず、語り手役から主人公が外れる。そして、それ以外の登場人物が、次々に語り手を務めることになる。まずは青葉、次いで春花、末莉、真純、寛、と役割は移行する。各々の視点から、順に「その後の顛末」が語られるのである。
準の視点から過去のエピソードの回想がなされる。主人公にも読者にもまったく意味がわからなかった「お金、いるの」というゲーム中盤の台詞の種明かしがなされる。
言うまでもなく、ここでの語り手の変更も、ノベルゲーム的にはあってはならない、破格の表現である。それだけに、読者に与えるカタルシスも大きいわけだ。映画などで同様の趣向をカメラワークでやる場合よりも、効果はずっと大きいと思われる。カメラの移動は映画ではまったく破格ではないからだ。
上で述べたような特徴に無頓着なライターがシナリオを書くと、読んでいてどこか物足りない作品が出来上がってしまうことが多い。キャラクターに魅力があり、プロットが練れたものであっても、ノベルゲームの定式にそれが上手く嵌め込まれていない感じが出てしまうのだ。
昔、「オタク道補論・エンタメ批評の特殊性」という文章を書いた。そこでは、「ジャンルごとの表現方法の差異に囚われすぎるのはよくない」というような論調を強く出した。今読み直すと少し極端に思えてきたので、娯楽作品にかんするジャンル固有の表現論に立ち入ってみたわけだ。どこまで成功しているかどうかはわからないが。

 

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